年間第5主日 2021年2月7日

先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。

 

朗読箇所のテキスト(日ごとの福音)

 

第1朗読 ヨブ記 7章1~4、6~7節

第2朗読 コリントの信徒への手紙一 9章16~19、22~23節

福音朗読 マルコによる福音書 1章29~39節

 

お話の要約

皆さん、こんにちは。今日の福音のテーマは、イエスの宣教に関するものだと思います。福音書ではキリストがシモンとアンデレの家に行って姑を癒し、そのあと多くの病人や悪霊に取りつかれている人を癒されたとあります。イエスに癒しを求めて寄ってくる人の気持ちは、第1朗読のヨブ記にも反映されていると思います。特に重い病気になっている人は誰でも、ヨブが言うようなことに共感できるのではないかと思います。「夜の長さに倦み、いらだって夜明けを待つ。」

 

普通は時間が早く経つと感じるけれど、病気になって苦しいとき、時の経つのはなんと長く感じられることでしょう。治療の方法があるかないかにもよりますが、特に長引くと望みが薄らいでいきます。ヨブもそうです。「私の一生は望みもないままに過ぎ去る。私の命は風に過ぎない。私の目は二度と幸いを見ないでしょう」と。病気のひとは特にそういう心境になるでしょう。現代でもそうなのですから、医学がそれほど発達していないイエスの時代にはなおさらそういう気持ちになったと思います。多くの庶民には治療を受けるだけのお金がなかったので、キリストが病気を癒してくださると聞けば当然集まって来たでしょう。

 

一つ考えるところがあります。キリストは確かに病人を癒し悪霊を追いだされたけれど、今日の「聖書と典礼」の注釈にもあるように、「宣教することの意味は、神の国の到来を告げ知らせること。これがイエスの活動の中心であり、病人を癒し悪霊を追いだすのはそのしるしである」のです。確かに、苦しむ人を助ける主の慈しみと憐れみがそこに現れていますが、ただ癒すためだけではありません。イエスは言われます。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも私は宣教する。そのために私は出てきたのである。」キリストがこの世で生活された時は多くの病人と悪霊に取りつかれた人を癒してくださったけれど、全員ではなかった。ユダヤやパレステイナの全土、ましてや世界中の病人を癒したわけではない。かなりの数だったし今でも癒されますが、それだけではないのです。

 

このことには聖パウロも触れています。自分には福音を告げ知らせる義務があるけれど、それはできるだけ多くの人を得るためだと言っています。聖パウロは主の名によって病人を癒したことも悪霊を追い出したこともありますが、それだけではないのです。何のためにというと、人間が神様と和解して、永遠に神様の愛の内に生きるため。これこそ福音の究極的な目的です。福音は、あらゆるご利益主義と全然違います。ご利益を求めるのは現世における利益を求めることですが、福音はそれを超えています。聖パウロは、「私たちは見えるものではなく、見えないものに目を注いでいます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」と断言しています。

 

一つの問いかけがここにあると思います。私たちは信仰生活を送っている者として、信仰の歩みを続ける者として、何を求めていますか?私たちの動機、何のために信じるのかを振り返る機会になると思います。成人洗礼を受けた人なら、信じるようになって洗礼を受けたことを振り返って、何のためにその時洗礼を受けたのか、何のために今も信仰生活を続けているのかを考えます。幼児洗礼の人だったら、親の希望で受けたことを自分自身のものとしなければ、大人になったら教会から離れて信仰生活は続かない。もし続けているなら、何のために続けているのかを振り返り考える機会になります。私たちの信じる動機は様々で、必ずしも純粋のものとは限らない。色々なものが混ざっていますが、それを見つめることによって、もっと純粋な動機になります。それは信仰の歩みの中の成長です。人がキリストに着いて行くときは、弟子たちもそうだったけれど、様々な理由で着いて行きます。色々な経験を通して、もっと純粋な愛と信仰に成長したのです。願わくは私たちもその人生を通して、信仰の歩みにおいて、そういう風に成長するようになればと祈っています。