主の洗礼 2021年1月10日

先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。

 

朗読箇所のテキスト(日ごとの福音)

 

第1朗読 イザヤ書 55章1~11節

または ヨハネの手紙一 5章1~9節

福音朗読 マルコによる福音書 1章7~11節

 

お話の要約

みなさん、こんにちは。

今回はいよいよ待降節、降誕節が終わり、主の洗礼の祝いです。待降節、降誕節をとおして、主がこの世に来られた神秘を黙想してきました。これからは、公(おおやけ)の生活の宣教活動について黙想することになります。主の洗礼のときから、キリストは宣教活動を始めて、福音を宣べ伝えられたのです。ひとつは、どうして主はそこまでしたかということを考える必要があると思うのです。というのは、キリストはここで人間となられて、へりくだって、罪を除いて私たちと同じような人間となられてこの世に来られたのです。わざわざ来られたと言ってもいいと思うんですね。主のご計画の中で、べつに義務も何もなく、まったくの愛の行為としてこの世に来られたのです。それは、やはり私たち人間の有り様を見て、憐れんでくださったのです。私たちに救いをもたらすために来られたのです。そして、特に、今日の第二朗読に、主は「水と血とによって来られた」と書いてあります。解釈のところにもあるように、水は、今回祝っている洗礼のことを指していると考えられます。血は十字架のことを指しているでしょう。そして、ずっとその間は、主の活動全体は聖霊によって導かれました。水と血と聖霊によって来られたのです。主のこれからの人生の全部がそこにまとめられているような感じです。

 

 

では、主は、どうしてそこまでされたのでしょう。私たちの有り様を憐れんでくださったんですね。どうして私たちの有り様を憐れむ必要があったのか…それも考える必要があると思います。特に現代では、人間は物理的な面では、それほど問題ではありません。確かに貧しい人たちはいるのですが、日本のようにだいたいの人は生活にそれほど苦しんでいないと思うのです。たぶん、人類の歴史の中で、今の時代ほど多くの人々が経済的に豊かになっている時代はこれまでなかったと思うのです。そういう世界でも、主は来られる必要があったんです。やはり、物理的なものだけではなく、精神的な、特に神さまとの関係において主は来る必要がありました。それは、特に、第一朗読で話されているところだと思います。預言者をとおして、主は救いにあずかるように呼びかけているのです。水や穀物をイメージとして、ただでもらいなさいと。そこに恵みの豊かさが表れていると思うのです。その半面、どうして「糧にならぬもののために銀を量って払い飢えを満たさぬもののために労するのか」。それは人間の有り様を指しているのです。物理的に豊かになっても心が豊かになるとは言えないのです。そこでひとつの話を思い出します。だいぶ前のことだと思うのですが、ある司祭が、日本から若者たちをフィリピンに連れて行きました。若者たちに日本以外の国のことを知ってもらい、フィリピンの人たちの精神に触れるためでもあったのです。特に印象にのこったのは、フィリピンの人たちは日本ほど豊かではありませんが、それでも精神的にもっと明るく、もっと喜びがある感じがしたのです。それで、日本の若者たちは驚いたんです。そんなに貧しいのに、どうしてそんなに喜び、心が豊かなのだろうと。その問いかけは、糧にならないもの、飢えを満たさぬもの、どちらかと言うと今の時代では、心の飢え渇きを満たすものという問題になると思います。そして、それをずっと掘り下げていくと、神さまとの関係につながっていきます。

 

人間は、神のために創られた存在です。私たちの心を完全に豊かにするのは、主なる神だけです。人間が求めている心の飢え渇きを完全に満たすのは、主なる神だけです。そうなるために、キリストはこの世に来られて、聖ヨハネから洗礼を受けて、福音宣教の活動を始めて、やがて十字架にかけられ亡くなって、復活したわけです。神さまと和解して、人間と神さまを和解させるために、そして、人間が完全に心が満たされるために。それも、預言書にあるように確かにただでもらうのです。ただひとつ条件があります。「耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。聞き従って、魂に命を得よ。わたしはあなたたちととこしえの契約を結ぶ」という言葉があるのです。人間は、主のもとに行く必要があるのです。主に聞き従う必要があるのです。やはり、ただでもらえるけれど、もらいに行かなければもらえないのです。特に今日、主の洗礼の神秘を黙想するとき、私たちにひとつ問いかけがあるのではないかと思います。まず、自分の心の飢え渇きを私たちはどこまで意識しているでしょうか。心の奥底で主を求めることがあるのです。自分はそれをどこまで意識しているか。そして、自分は主のもとに行こうとしているでしょうか。主に聞き従おうとしているでしょうか。または、自分の思いで生きて、自分のところに主が来てくださって、いいように助けてくださるように祈るような感じだけでしょうか。もちろん主は助けてくださるのですが、本当の心の飢え渇きを満たしていただくためには、主のもとに行って、主に聞き従う必要があるのです。それは私たちに投げかけられた課題だと思います。