待降節第3主日 2020年12月13日

先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。

 

朗読箇所のテキスト(日ごとの福音)

 

第1朗読 イザヤ書 61章1~2a、10~11節

第2朗読 テサロニケの信徒への手紙一 5章16~24節

福音朗読 ヨハネによる福音書 1章6~8、19~28節

 

お話の要約

みなさん、こんにちは。

今回は、待降節第3主日になります。待降節第3主日は喜びの主日とも言われています。このテーマは、きょうの第一朗読と第二朗読によく表れ、入祭唱と集会祈願も同じテーマになっています。この喜びは、普通に考えられる喜びとはちょっと違うと思います。人間的には、「楽しみ」とまず考えられるところだと思いますが、現代社会では、お金さえあればいくらでも楽しみが手に入ります。何でも楽しむことができるのです。でも、この喜びは、もっと深いところにあるものです。たとえば、第二朗読の聖パウロの言葉は有名で、好きな言葉である人も多いと思います。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」。この言葉を気に入っている人がどこまで深く考えているかわかりませんが、この三つとも大事な言葉です。「いつも喜んでいなさい」と言っても、絶えない祈り、絶えない感謝が伴わなければ、本当の意味で喜んでいることにならないと思います。そしてそれは「どんなことにも感謝しなさい」、すべてにおいて感謝しなさいということです。嬉しいことや楽しいことだけではなく、悲しいことも苦しいことも感謝しなさいと聖パウロは言っています。聖パウロは、自分自身もそうしたのです。悩みの中で苦しみの中で、自分はそれでも喜んでいると言っています。それは、やはり普通の社会の楽しみとは次元が違うかも知れません。ここで言われている喜びは、信仰の喜び、福音の喜び。教皇フランシスコが特に強調しているところです。

 

それでは、わたしたちは、その聖パウロの呼びかけにどう答えるのか。その「喜び」についてまず考えてみる必要があると思います。人生の中で、人が何に喜びを感じるかは変化していくと思います。幼稚園の頃の子供たちは、おとなの目から見ればささいなことですごく喜んでいます。興奮しています。幼児の心はまだ素直で、人生経験があまり無いので多くのことを新鮮に感じるから、それなりに喜びも大きいのです。だいたい人は、大きくなるにつれていろいろなことに慣れて、以前はすごく喜んだことを当然のように考えて、有難くなくなる傾向があります。その意味からも、主イエスは、幼子のようにならなければ天国に入れないと言われたのではないかと思います。いただいた恵みに対する新鮮な心をいつも保つことは大事だと思います。でも、人は大きくなったら、子供が想像もつかないような喜びもあるのです。たとえば、恋愛のような経験は、人にとってとても大きな喜びの経験です。多くの人はそれに憧れていると思います。でも、おとなになって必ずしもそういう経験をするとは限りません。一生に一度もそういう経験をしない人も結構いると思います。そういう相手に巡り会わなければ、そこまでの経験はできないでしょう。または、何か仕事において、すごく充実感を覚えること、自分の才能を活かして意義があると感じるような仕事も大きな喜びです。先日、父と話した時、父は自分の人生を振り返って、仕事の面では大きな恵みであったと言いました。本当に充実した仕事生活を送ったのです。でも、すべての人がそういう経験をできるわけではありません。自分にあった意義のある仕事がなかなか見つからずに過ごしている人もいるのです。でも、確かにそういう恵みをいただいている人は、幼児には想像もつかないような喜びを感じます。

 

しかし、聖パウロが話している信仰の喜び、福音の喜びはさらに違う次元のもの、さらに深いもの、高いものと言えます。神さまに救われている喜び、神さまに愛されている喜び、自分が神さまに喜ばれる者になっている喜びは、すべての人に可能です。ほかの喜びと同じように一生それを経験せずに過ごす人がいるとしても、恋愛や仕事とは別に、特に巡り会わなければできないものではなくて、その人さえ求めれば誰にでも手に入ることです。そこでひとつ私たちに向けられるのは、「まず私たちはこの喜びが欲しいでしょうか」という言葉です。というのは、幼子がおとなの喜びを想像できないように、私たちは信仰の喜びがどういうものであるのかあまり想像できないからです。でも、そこで私たちにもそういうことが可能であるとわかれば、だいたい人はそれを求めると思います。そこから始まります。主を求めることから、主によって与えられる喜びを経験することができるのです。その意味からも、待降節のテーマにそっています。待降節のひとつ大きなテーマは、待ち望むことです。待ち望む、求める心が私たちに求められています。今年も私たちはクリスマスのお祝いを準備しています。クリスマスまでもう少しということもあるので、今日この日は、喜びの主日と呼ばれています。クリスマスのお祝いが本当の意味の、深い意味の喜びになるために、私たちはどれほど主を求めているか、主を待ち望んでいるか、そういう喜びをもっと経験したい、主の救いをもっと深く知りたい、そして特に、何よりもクリスマスに示された神の愛をもっと深く悟りたい…そういう気持ちは、クリスマスを祝うための大きな準備になるのです。

 

「待降節をとおして、主よ、あなたの愛をもっと深く悟らせてください」、その祈りは、待降節にふさわしい祈りで、クリスマスに対する大きな、大事な準備になります。