諸聖人 2020年11月1日

先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。

 

朗読箇所のテキスト(日ごとの福音)

 

第1朗読 ヨハネの黙示録 7章2~4、9~14節

第2朗読 ヨハネの手紙一 3章1~3節

福音朗読 マタイによる福音書 5章1~12a節

 

お話の要約

みなさんこんにちは。今回の日曜日は普通の年間ではなく諸聖人という特別な祭日になります。諸聖人とは諸々の聖人。教会は一年中、色々な聖人を祝っています。私たちの聖アンナ、または聖フランシスコ、聖ヨハネ、聖テレジア、誰よりも聖母マリア祝っています。その他にもたくさんの聖人がいます。私達はその前を知らない大勢の聖人がいます。教会は年に一回この日を祝い、他のところで祝っていないすべての聖人を祝っています。天国にいる人たちはみな聖人です。聖人でなければ天国に入れないからです。私たちは救われるなら、救われているけどまだ聖人になっていないなら死ぬとき、煉獄を通ってあとで天国に入ります。

 

この聖人の中には私たちの知っている人もいると思います。親戚とか友人など。先祖たちも。

もちろんその人は必ず天国に行っているとはいえません。みな保証はないのです。誰が天国に入っているか入っていないかは私たちの知るところではないのです。でも天国に入っている人がいるのは間違いがないのです。特に日本の先祖を考えたら、長い間キリストを知る機会は全くなかったのです。聖フランシスコ・ザビエルが来るときまで。その後でも迫害の時代があって日本の幕府が人がキリストを知らないように機会を奪っていました。長い間、先祖たちはその機会が全くなかったのです。でも教会の信仰では、キリストを知らない人でも救われる可能性があります。保証はいつもないのですが可能性はあります。

 

人はみな生まれつき良心があります。良心は私たちの中の神の声のようなものです。人がキリストを知らないとしても良心にしたがって忠実にしているなら自分の知らないうちに神さまの声にしたがっているからキリストに救われます。たしかに先祖の中でも救われている人も結構いるのではないかと思います。たとえば仏教によって自分の良心に従うと学んだらそれによってキリストに救われることが考えられます。その人たちはキリストを知らないから亡くなったときはびっくりすると思います。キリストの前に出たら。

 

一昔前のことですが、ある人がカトリック幼稚園に先生として勤めるようになりました。その人は宗教と関係がない生活をしていましたが、カトリック幼稚園に勤めるようになって、先生たちの聖書勉強会に参加することになりました。本人の話では最初はかなりつまらない仕方ないという思いで参加していたそうです。ところがある日、福音書のキリストの受難の箇所を読んでいました。キリストが自分を十字架にかけている人のために御父にゆるしを願っている場面

「父よゆるしてください。何をしているかわからないのです。」

弁明のような言葉です。その言葉を聴いた先生はすごく心を打たれました。そしてこう考えたそうです。「これは私がずっと探していた方だ」と。

でも多分その人は自分はキリストを探していると意識していなかったと思います。多分、自分が探していること自体気付かなかっただろうと思います。キリストと出会ったと同時に

これは私が無意識のうちにずっと探していた方だと気付きました。一つの幸いな発見と同時にびっくりしたこともあると思います。キリストを知らない人で救われた人は同じ反応があるかもしれません。キリストの前にでたらイザヤ書の、よく葬式で読まれる箇所

「その日には人は言う。見よ、この方こそ私たちの神。私たちは待ち望んでいた。この方が私達を救ってくださる。この方こそ私たちが待ち望んでいた主。その救いを祝って喜び踊ろう」このような反応になるのではないかと想像します。

 

そこでひとつ大事なところ。天国にいる日本の聖人、私たちの前を知らない多くの人も含めて、まずこのうえない幸せになっています。神ご自身をみています。喜びに満たされています。たしかにその人たちはこの世界で時々言われること、キリスト教は日本人に合っていないとか、それはうそだと誰よりもわかっています。日本人も最高のこのうえない幸せは、キリストの愛を知ってキリストの愛のうちに永遠に生きるそのことだとわかっています。天国の日本人はすべて、同じように自分が経験している幸せに入ってほしいあずかってほしいはずです。問題は、聖人たちは私たちに天国に来てほしいというのぞみがあるのに、こちらの人はそれほどのぞんでいない気がします。天国にいる人は「ぜひこっちへ来なさい。こっちは一番良いです。ここをめざすべきです。」

でもここにいる私たちは天国をめざして望んでいることはあまりない。それより日常的なこと。病気が治ること、いろいろな幸せを求めていることをむしろ強くあるのではないでしょうか。それも悪いことではないですが、一番大きなのぞみをそれほど熱心に求めていないことがあるのではないかという気がします。

 

「高のぞみ」という言葉がありますが、これは「低のぞみ」と言ってもいいのではないでしょうか。高のぞみは自分の身分を超えていることなら、自分が実際に召されている喜び、それをそこまでのぞまないでそれより低いものをのぞむのは、むしろこれこそ大きな問題ではないでしょうか。