年間第23主日 2020年9月6日

先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。

 

朗読箇所のテキスト(日ごとの福音)

 

第1朗読 エゼキエル書 33章7~9節

第2朗読 ローマの信徒への手紙 13章8~10節

福音朗読 マタイによる福音書 18章15~20節

 

お話の要約

皆さん、こんにちは。今日の第2朗読で、聖パウロはこう書いています。「皆さん、互いに愛し合うことの他は、誰に対しても借りがあってはなりません。」具体的には、キリストは福音書の中で兄弟の忠告について話しています。

そのことがどうして愛に入るかというと、確かに普通のやり方よりは愛に入ると思う。兄弟(ここでは同じ信者という意味)からキツイ言葉を言われたら、多くの場合その本人に話さないで、むしろ第三者に話して陰口を言ってしまいがちである。それは確かに愛に反すること。その人の評判に傷をつけることになるし、その人がよくなるために何の役にも立たない。忠告とは、もっとその人のためになるものでなければならない。でも、キリストは別のところで「ゆるしなさい」と言われている。では、それをどうやって今日の箇所と結びつけるのか。一つ、大事な区別を心に留める必要があると思う。

 

「ゆるす」という言葉を書くとき、日本語では二つの漢字がある。辞書を引いてみれば、動詞として使われる時は意味をそんなに区別していないが、熟語の方がもう少し区別があるような気がする。「赦」と「許」、この二つの漢字で、恩赦の「赦」と許可の「許」。新共同訳を訳した人々は熟語からくる意味を考えて、動詞もかなり使い分けている。「許」のゆるしは、許可する、よしとする、差し支えがないと判断する、というように使われている。「赦」のゆるしは罪のゆるし、借りを取り消す、わだかまりを捨てる、仕返しを諦める、というように使われている。キリストが「ゆるしなさい」と言われるときは「赦」の方。あくまでも人を「赦しなさい」とキリストは言う。でも、罪は「許し」てはいけない。人間が罪を犯すときは神様から離れてしまうことになり、それは人間のためにならず、むしろ不幸になるから。愛する人は神様から離れることを「許」そうとしない。だからキリストは忠告することを教えている。

 

それでも難しい所だから細かい所にも注意を払う必要がある。まず、「兄弟があなたに対して罪を犯したなら」というのは、「あなたに対して」、自分もすでにその中に入っているような感じ。信者の仲間だったら走りまわって忠告することはまずい、余計なことになる。でも、自分と関わりがある時にはそれが必要。「行って、二人だけのところで忠告しなさい」の「二人だけのところ」というのがすごく大事。公でないものは、公にしてはいけない。だからまず二人だけで、相手を傷つけないように話すと説得力があると言うか、考え直してもらう可能性がもっとある。皆の前だったらもっと恥をかくから、反発する恐れももっと大きくなる。二人だけのところで「忠告しなさい」という言葉も大事。叱りつけなさいと言うのではなく、責め立てなさいとも言わないで、「忠告しなさい」。その人のためを思って、その人が考え直すように。もしかしたら誤解もあるかもしれない。その誤解が解かれたら、それで仲直りすることもある。誤解でない場合でも、考え直すためには大事なこと。具体的には、その人がやったことに対する言葉より、その時の自分の気持ちを伝えた方がもっと効果的だと思う。

 

たとえば、「あなたが私にこうおっしゃったとき、本当に腹が立って悲しく気持ちが沈んで、どうしてそこまで言われなければならないのかと辛い思いをした」というように、自分の心を開いて気持ちを伝えるなら、もっとその人の心に響く可能性がある。それだったら、もっと考え直してもらえるだろうと思う。でもそれでも駄目だったら、「一人か二人を連れていきなさい」。この場合は二人とも知っている人だったら、特に信頼関係にある人だったら役立つと思う。ほかの人が間に入って仲介してもらえば、もう少し考え直してもらえる可能性が高くなるんじゃないか。それでも駄目だったら、「教会に申し出なさい」。でも私は、そんなに公にすることは望ましくないと思う。本当に公のものだったら公に取り上げる必要があるけれど、それほど公のものでなければ、むしろ教会の責任者である司祭に間に入ってもらって仲介とか話し合いをしたら、もしかしたら考え直してもらえるんじゃないかと思う。それでも駄目だったら、仲間はずれになってしまうけれど、それはそこまで頑固になるというだけのこと。あくまでもその人のために、立ち帰ること、考え直すことを求める。仲間はずれになっても、最後までその人が考え直す機会を与えるべきで、これらはすべて聖パウロが言っているように、「互いに愛し合う」ためのものだから。「兄弟を得るため」とキリストも言う。その人のためを思って。

 

人が神様から離れることを「許す」ことは愛の行為ではありません。そのひとを「赦す」べきだけれど、神様から離れることを「許す」べきではないのです。本当の意味で相手のためを思ったら、その人が神様から離れないで、ちゃんと天国に行って神様と一緒に永遠に幸せになることは、信者としてすべての人に望むことです。それは「愛のわざ」です。場合によっては忠告の形になるでしょうが、あくまでも「愛のわざ」なのです。