年間第17主日 2020年7月26日

先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。

 

朗読箇所のテキスト(日ごとの福音)

 

第1朗読 列王記上 3章5、7~12節

第2朗読 ローマの信徒への手紙 8章28~30節

福音朗読 マタイによる福音書 13章44~52節

 

お話の要約

皆さん、こんにちは。今週は前の週と同じように、マタイによる福音の13章を読んでいます。そしてまた、イエスの天国のたとえ話が載っています。畑に隠された宝を見つけた人のたとえと、特別高価な真珠を見つけた人のたとえ話です。二つとも大体同じような意味ですが、一番重要なところは、それを見つけた喜び、「宝を見つけた人は喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払ってその畑を買う」と書いてあるところです。

そこでは、喜びのあまり全財産を売って、とにかく何を犠牲にしてもその宝を手に入れたいという喜びに駆られた熱心な思いが語られる。キリストは天の国がどれほど素晴らしい価値あるものか、尊いものかを伝えたいので、天国と言えば私たちはキリストの愛と恵みを振り返ったらいいと思う。

 

実はキリストはここで、見つけた瞬間の喜びを話している。そのような経験はあると思う。私が別の教会にいた時出会った、洗礼の準備をしている人の話を思い出した。その人は自分が日本人ということで、キリスト教は縁のないもの、西洋の宗教だという先入観があった。自分の心が飢え渇き、何かを求めている時に、まず仏教や新興宗教のところを回ってその応えを探した。でもどこに行っても、自分が何を求めているのか、はっきり分からないとしても、そこにはないとわかった。キリスト教も全部試してみようと教会を訪ねて話を聴いているうちに、ある日凄い恵みを戴いた。詳しいことは説明しなかったけれど、神様の愛を強く感じ、自分が求めていたものを戴いた感じがした。本人が言うには、棚から牡丹餅みたいな気持ちだった。

 

キリストはここで、最初に見つけたときのことを話しているが、実はその続きもある。天の国は宝とか真珠だけではなくて、鉱石が豊かに掘り出される宝庫のようなもので、掘り出せば掘り出すほど次々に高価な鉱物が採掘される。同じように私たちの信仰の歩みの内にも、神様は様々な恵みを与えてくださる。もちろん、一番大きな完成は天国に行くことだけれど、人生の歩みの中で神様はずっと恵みを注いでおられる。果たして私たちは、それほどその恵みを探しているかどうか。たとえば皆さんの中でも、特に成人洗礼を受けた方の多くは、洗礼は大きな恵みだと感謝して、信仰に入ってよかったと思う方が結構いると思う。ただ過去のことだけではなくて、今の人生に神様はどんな恵みを与えたいと望んでおられるかを考えて、恵みを求める心はとても大切だと思う。

 

そういう意味で、私たちが今日祝っている聖アンナは模範になる。日本語では「守護の聖人」と言うが、「守護」という言葉は「守る、護る」と書く。教会の思いでは「守護の聖人」は私たちを守ってくださる聖人だけれど、それだけではなく、導いてくださる聖人、とりなして助けてくださる聖人、模範になる聖人、励ましてくださる聖人であり、天の良き先輩のような方々である。聖アンナもヨアキムも名前は聖書に載っていないけれど、信心深い二人は教会の伝統によって、心から神様を求め仕えていた聖人となっている。聖アンナは、洗礼者ヨハネの母エリザべトのように、また預言者サムエルの母ハンナのように、子どもができなくて苦しんでいたので、子宝に恵まれるよう神様に熱心に祈っていた。神様は長い試練の後、聖アンナに子供を授けて、しかもキリストの母となる聖マリアを彼女の娘として与えられた。

 

そこには一つの大きな教訓もある。キリストが言われるように、「まず神の国とその義を求めなさい。そうすればすべて加えられて与えられる」。そういう優先順位のようなものがあって、他のものは祈り求めることができ、それはむしろ主のみ心に適うことである。特に、主が私たちに与えたいと望むことは、よくその望みも先に与えてくださる。あとではその望みをかなえてくださるのだけれど、御心に適う望みだったら、主は必ず与えてくださる。でもその恵みは、私たちが神様に近づくためのもの。聖アンナの場合、聖母マリアを生んだ時は確かに大きな喜びだったと思う。この凄い恵みは、聖アンナにとっては、もちろん神様に感謝することだけれど、戴いた恵みによって、聖アンナはますます神様を求めるようになり、ますます神様を信頼して、ますます神様に仕えた。

 

結局、神様が与える恵みはそのためです。私たちが神様に近づいて、神様の愛にもっと与るように、もっとキリストに結ばれるようになるためです。今回の聖アンナに対するノベナの祈りも、そういう思いで計画してみたのです。まず聖アンナに、私たちの共同体がもっとみ心に適う共同体になれるよう祈り、そのあと自分が今必要としている個人的な祈りを唱えたら、私たちもまず神の国を求めることになります。聖アンナのとりなしで戴く恵みによって、私たちが主をますます求めるように、主にもっと結ばれるようにと、私はたえず祈っています。