キリストの聖体 2020年6月14日

先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。

 

朗読箇所のテキスト(日ごとの福音)

 

第1朗読 申命記 8章2~3、14b~16b節

第2朗読 コリントの信徒への手紙1 10章16~17節

福音朗読 ヨハネによる福音書 6章51~58節

 

<お話の要約>

皆さん、聖書を読まれたと思うので、話を進めます。先週の日曜日は三位一体の祝いでした。その時三位一体の神秘の意味として、「神様は私たちをご自分の愛の交わり、父と子と聖霊の愛の交わりに招き入れたいという望みを持っておられる」と話しましたが、今回のキリストの聖体の祝いとも繋がっています。というのは、本当の意味で三位一体の交わりに入るのは天国に行くときですけど、この地上に於いてもすでに始まっています。そしてその始まり方は、何よりもこの「ご聖体」にあるのです。

今回の聖書朗読箇所でも聖パウロは、「この杯はキリストの血に与ることではないか、この裂くパンはキリストの体に与ることではないか」と言っている。「聖書と典礼」の注釈にあるように、ここで訳された「与る」という言葉は「交わり、一致」という意味も持っている。ご聖体を通してキリストは、ご自分との交わりに招き入れる。御子キリストは三位一体だから、父と聖霊から切り離すことはできないので、同時に、父と聖霊との交わりに招き入れることになる。聖パウロが説明しているように、それは私たちと三位一体だけではなくて、他のキリスト者とのつながりにもなる。最後のところで、「私たちは大勢であっても一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです」と言っている。この「一つのパン」はもちろんキリストの体。皆が唯一のキリストの体に与るから、互いにも結ばれている。その意味では家族みたいな村落みたいな、もっと深い意味の共同体になる。同じキリストの体に与る者として、共同の体、キリストの体となって私たちも一体になる。この教会の今年のテーマである「共に祈り、共に歩もう」の「共に」は、そこからくる。

 

福音書でも同じことが言われている。「キリストの体、キリストの肉と血を食べる者はキリストの内にいる。そして、キリストもその人の内にいる」、そういう交わり。これは考えれば凄いことだと思う。キリストはそこまで私たちを、ご自分の命、父と聖霊との交わりの内に迎え入れたいと望んでおられる。ご自分が十字架上で私たちのために体を捧げることに留まらないで、ご自分自身をご聖体に於いて私たちに与える。そのことを考えると、私たちの聖体拝領、ご聖体を戴くときの態度を振り返る機会にもなると思う。私たちはどんな態度でご聖体を戴くか?この三か月間はミサも中止になったから、ご聖体を戴く機会が少なくなった。それも一つ、ご聖体に対する態度を振り返るために良い機会だったと思う。キリストは、そこまで進んでご自分を私たちに与えた。私たちをご自分の命に迎え入れよう、招き入れようとされている。でも、私たちはマンネリ化すると、そういうことをあまり考えずにご聖体を戴くこともあるんじゃないか。

 

信仰を新たにするためにも、私は話を聴く前に繰り返し聖書を読むように勧めている。ご聖体をもっと信仰深い態度で受けるために、その信仰をみ言葉で養うことは一番効果的で、そのためにミサは二つの部分から成っている。み言葉の祭儀と食卓の祭儀、み言葉の食卓とご聖体の食卓。ミサの前半は後半のため。主のみ言葉を聴いて私たちの信仰を養うなら、もっと信仰を持って進んでご聖体を戴こうとするようになり、もっと自分が何をしているか意識するようになると思う。キリストがそれだけ私たちを愛して、ご自分を与えたいと望んでおられるその愛をもっと心に留めて、その主の愛に応えようとする思いでご聖体を戴くようになる。

 

それだけ私たちの内に入りたいと望まれる主を、もっともっと喜んで迎える心になったら、私たちはご聖体を戴くとき、もっと豊かに恵みを戴いて、もっと自分が主に結ばれていることを深く実感して、私たちの体も心も強められ、もっと力強く「共に祈り、共に歩む」ことができるようになります。