四旬節第3主日 2020年3月15日

第1朗読 出エジプト記 17章3~7節

第2朗読 ローマの信徒への手紙 5章1~2、5~8節

福音朗読 ヨハネによる福音書 4章5~42節

 

朗読箇所のテキスト(女子パウロ会公式サイト)

 

<お話の要約>

この状態はまたしばらく続きそうだから、3月29日までミサ中止を続けることにしました。あまり嬉しいことではないけど仕方ないかなあと思っています。今、世界全体は自粛に向かっており、いつもより時間ができた人は、それは神様からの時間だと思って有意義に使っていただけると思います。特に、教会では四旬節の行事や祈りの会ができなくなったけど、皆さんが家庭で祈りができるように準備したいと思っています。

 

今日の福音の「サマリアの女」について話したい。イエスが旅に疲れてサマリアという町の井戸で休んでいたら、一人のサマリア人の女が水を汲みに来た。イエスは彼女に水を飲ませてくださいと頼む。その言葉自体凄いなと思う。というのは、このイエスは以前、五千人にパンと魚を増やして配った方。それなのにここでは、水一杯くらい自分でどうにでもできるのに彼女に頼む。「水を飲ませてください」と。どうしてそこまで頼むのか?しかも聖ヨハネも私たちに伝えているように、サマリア人とユダヤ人は交際しないことになっていた当時の習慣に反してそう頼む。

 

昔から教会の理解では、イエスは単なる水を求めているだけではなくて、そのサマリア人の女の信仰、その愛を求めている。人の愛に渇く感じ。同じように、マザー・テレサは特に十字架上のイエスの言葉にその意味を見出している。福音記者聖ヨハネも伝えているように、イエスは十字架上で「渇く」と言われた。マザー・テレサの理解では、主は人の心に渇いている、愛に渇いている、救いに渇いている…。今でもマザーテレサの「愛の宣教者会」の修道院に行ったら、十字架の近くにその言葉が書かれて壁に張り付けてある。<渇く>

 

でも、それも凄い。というのは、人間は神様に創られたもの。創造主でありながら自分が創ったものに何かを求めている。それ自体、凄いへりくだり、神様のみ心に適うものだった。   神様は最初に人間を創られた時から、自由意志を与えてくださった。人間にはなぜ自由意志が与えられたのかと言うと、人間が自由に愛するためだった。自由は人間が好き勝手をするためではなく、愛するため。愛そのものは強制されるものではなく、自由に愛さないなら本当の愛にはならないから。それで、神様ご自身がご自分が創られた者の前にへりくだって求める。「水をのませてください。」そう言われたとき、私たちの応えはどうなるか?

 

キリストが私たちに愛と信仰を求めている。その主の前に、私たちの応えはどうですか?それを考えることが回心のカギでもあるような気がする。「おとずれ3月号」の巻頭言にも書いたように、改心は心を改めて行いを正すと意味だと思われているが、聖書では心を回す、心の向きを変える、自分の行いを正す前に神様に心を向けて神様の愛に心を開く、神様を愛する、そういうことにあるのではないかと思う。

 ヨハネ福音書4章を、皆さんも祈りのうちに読んで頂ければと思います。そして、この言葉を自分に向けられた言葉として受けとめて下さい。主は私にも「水を飲ませて下さい」と頼んでおられます。私はキリストに何と応えますか?四旬節の良い黙想になりますように。