待降節第2主日 2022年12月4日

先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。

 

朗読箇所のテキスト(日ごとの福音)

 

第1朗読 イザヤ書 11章1~10節

第2朗読 ローマの信徒への手紙 15章4~9節

福音朗読 マタイによる福音書 3章1~12節

 

<お説教要約>

四旬節の流れとして教会は、第1主日はいつも主の再臨、世の終わりに主が来られることを黙想しています。第2と第3の主日は、特に洗礼者ヨハネのことが中心に取り上げられて黙想します。この洗礼者ヨハネの役割は、今日の福音にあるように、既にイザヤによって預言された役割です。『荒れ野で叫ぶ者の声がする。主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』

キリストの到来の準備をし、その役割を果たすために道を整えるというのが洗礼者ヨハネのメッセージです。『悔い改めよ。天の国は近づいた。』聖ヨハネは、来られる方のことを強く意識して、そのあとの福音書でも触れています。来られる方、主のために道を整えるとは、特に悔い改めによって自分の心を整えるということです。

 

ここで、もう一つの到来の意味がでてきます。というのは先週もちょっと話したように、この待降節はまず主の再臨、世の終わりの到来についての黙想から始め、次第に主の最初の到来、クリスマスに聖母マリアから生まれてこの世に来られたことを黙想して祝うようになるのです。でもその二つの到来の間に、もう一つの到来があります。最初の二つとも目に見える到来ですが、この到来は目に見えない到来です。これは「キリストが私たちの心に来る」ということです。それは毎日可能なことで、主は毎日私たちの心を訪ねて一緒に住みたいと望んでおられます。でもそうなるには、私たちは道を整える必要があるのです。

 

そこでもう一つの悔い改めがあります。四旬節にもそのテーマがありますが、待降節はちょっと違う感じの悔い改めです。特に主の到来を準備する意味での悔い改めです。その到来の準備をするために道を整え心を整えることは、聖ヨハネが呼びかけています。私たちにも同じように呼びかけています。実際には主は遠くにおられると感じるとしても、主ご自身はものすごく身近におられます。聖アウグステイヌスが言うには、『私たちの心の奥深いところよりさらに奥深いところに主はおられます。』私自身が自分に身近な存在であるのよりも、主は更に身近な存在で、私たちを支えてくださる方です。問題は、どうやって主のところに届くか、どうやって主に来ていただくかということ。主は常に身近におられて、私たちを訪ねたいと望んでおられます。私たちの方でそれを妨げているものを取り除くことが、道を整えることになるのです。

 

でもどうやって、その妨げるものを取り除くのか?それは、主に心を向けること、主に心を開くことによって。そしてそれは、私たちの人生を主の前で生きることでもあるのです。たとえばもっと信仰生活に熱心になりたいと思って、もうちょっとこれをしたい、あれをしたらいいと思ってもなかなかそこまでできない。人生の中のいろいろな出来事や悩みなどにあって、もしこの事がなければもっと熱心に信じられるのにと思うかもしれない。でも実際に、私たちの人生のあらゆる経験は主に近づく機会にもなります。私たちの受け止め方によって。生活の中で何かの出来事があったとき、主に向かう心があれば、「主よ、この事を通して私に何を示してくださいますか?私に何をしてほしいですか?」という心の問いかけができる。主に対する問いかけによって、その経験は主に近づく機会にもなるのです。そしてその主の言葉を心にとめて、聖ヨハネが言うように『悔い改めにふさわしい実を結ぶように』、たとえば人と喧嘩したら仲直りしようと努めること、人に傷つけられたらその人を許そうとすること、人のことを悪く思ったらその人の好いところを探そうとすること、困っている人がいて私に助けることができるならその人を助けることなど…。そういう日常的なことの中で、その心があればいくらでも機会はあります。

 

主に心を向ける機会、生活の日常茶飯事の中のそれぞれの機会を利用するなら、私たちはそれによって心を整え道を整えることになる。それは自分の心に通じる道です。そしてそうしたら、キリストはもっと簡単に私たちの心に入り、私たちを訪れることができます。主は喜んでいつも私たちを訪ねたいと思っておられます。私たちの心を見ておられる主は、喜んで私のところに来られます。