待降節第1主日 2022年11月27日

先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。

 

朗読箇所のテキスト(日ごとの福音)

 

第1朗読 イザヤ書 2章1~5節

第2朗読 ローマの信徒への手紙 13章11~14a節

福音朗読 マタイによる福音書 24章37~44節

 

<お説教要約>

今日から教会は待降節に入ります。待降節は教会の典礼暦年の始まりです。典礼的なお正月です。しかしおもしろいことに、年の初めに教会は特に世の終わりについて黙想します。

毎年待降節の第一主日のテーマ、待降節の大きなテーマはキリストの到来です。最初の到来としてはキリストが人間としてこの世に来られたことを私たちはよく考えますが、教会としてはそれだけではなく、それはキリストの再臨、世の終わりに再び来れることも主の到来とし、むしろそこから考えるのです。というのは世の終わりのキリストの到来ははキリストの最初の到来の意味をもっと示しているからです。

 

今日のテーマでキリストが強調するのは、最後の時は急に来るということです。到来、再臨そのものよりその直前にいろいろ大変な時代があると聖書は教えています。急に襲って襲ってくると。キリストはノアの洪水の時代に触れていますが、たとえば最近私たちも経験したこともあります。3年前の今頃、中国でやっと少しずつ新しいヴィ―ルスが発見されたとの報道がありましたが、しばらくすると日本にもそれが襲ってきて、私たちの日常生活が一遍に大きく変わってしまいました。2011年3月11日、東北の多くの人たちは朝起きて今日も他の日と同じであろうと思って生活を始めましたが、その日のうちに一遍にすべてが変わってしまいました。

 

キリストはそのことをここで話しています。最後の大変な時代は急に襲ってくると、それに関して警告しています。そのように襲ってくるから目を覚ましていなさいと。また、その時は思いがけない時に来るから用意していなさいと。目を覚ましていなさとの表現は文字通りに受け取るとひどい睡眠不足になってしまいます。これは比喩的表現で、心構え、心の持ち方を言っているのです。目を覚ましていなさい、用意していなさいと。

 

目を覚ましているとは、常にキリストに心が向いている状態です。主を意識している状態。聖パウロは「あなたたちが眠りから覚めるべき時がすでに来ています」と言っています。意識しないと、眠っているような生活になりますが、人間はそういうことがあります。何となく生きている、期待されたことに責任をもって生活を送っているが、意識的に何かを目指しているのでなく、何となく暮らしているということがあります。パウロはまた「日中を歩むように品位をもって歩もう」と心の持ち方を言っています。

 

どうやってその心を持つかというと、それは愛の業、憧れの業によるものです。人は、或る人を深く愛していると、その相手の人はすでに自分の心の中にいます。深く愛している相手を何となくいつも意識しています。何をやってもいつもその人のことが心にあります。これは深い愛と強い絆の場合ですが、キリストとの関係も同じです。キリストともっと深く結ばれているなら、キリストへの愛と憧れがあるなら、私たちはキリストを意識するようになります。

 

信徒の使命は社会の中でキリスト者として生きるように目覚めていることですが、修道者、隠遁生活者の生き方ではありません。ですから絶えずキリストに集中していることはできません。でもそれを大事にする必要があります。その中で普通の生活をし、責任を果たしながらつねにキリストを意識して、キリストが心の中にいる感じになります。キリストはそれを言っておられるのです。「目を覚ましていなさい、用意していなさい」という心構えです。

 

心にキリストが常にいてくださるなら、キリストがいつ来られてもかまいません。用意、心構えができていますから。聖書が言うような大変な時が来たとしても、どんな時が来てもキリストと共に大変な時代を生きることができるでしょう。これが、主からの今日の呼びかけです。そのような人は確かに幸いです。目を覚ましている人は幸いです。主の歓びにあずかって永遠の命に入りますから。