年間第33主日 2022年11月13日

先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。

 

朗読箇所のテキスト(日ごとの福音)

 

第1朗読 マラキ書 3章19~20a節

第2朗読 テサロニケの信徒への手紙二 3章7~12節

福音朗読 ルカによる福音書 21章5~19節

 

<お説教要約>

今日の福音ではキリストの弟子たちとの話の場面が読まれます。当時のユダヤ人の関心の一つは、メシア王国の到来、つまり、世の終わりのことでした。これについてキリストが教えておられます。現代の人の中に世の終わりに関心のある人はそれほど多くないと思われます。しかし、これは私たちに当てはまることでもあります。

 

キリストは話の中で地震や疫病や戦争に触れていますが、今も東北大地震、コロナ禍、そしてウクライナでの戦争もあります。キリストはそういうものがあっても、世の終わりはすぐには来ないと教えています。しかし、すぐに来ないと言っても私たちはこの難しい時代に生きなければなりません。それに加えて、世界の変化も心配です。最近ニュースで見ましたが、これまで中高生の不登校はありましたが、最近では小学生にも不登校の傾向が出てきているというのです。今、暮らしは便利になりましたが、反面、精神的に生きづらくなってきています。私たちは子供たちにどのような世界を遺すのでしょうか。多くの心配がありますが、その心配の中でどのようにしたらよいのでしょうか。

 

キリストは、一つにはおびえてはならないと教えています。心配は自分の思いや気持ちから来るものですが、それを信仰の眼で見る必要があります。自然な心配事や不安の中で信仰が試されます。人間的にそれに反応するかそれとも信仰の心で反応するか、ということです。信仰の眼から見れば特に忍耐が大切です。「忍耐によってあなた方は命を勝ちとりなさい」と聖パウロも言っています。

忍耐は我慢とは違うような気がします。我慢とはこらえることであって、そうしないと困ったことが起こるのではないか心配するからです。聖書でいう忍耐は希望に基づいています。希望があるので、今の苦しみ悩みを耐えるのです。その希望はキリストに賭けている希望であって、それは御父のみ摂理、ご計画に賭ける希望です。世俗的な希望においては、政治や経済で世の中が動いていると思っています。確かに世界は人間の選択や働きによって変化していきます。でも信仰の眼で見るなら実は、すべてを越えて御父が導いておられるのです。すべては御父の計らいの中にあります。良いことも悪いことも。御父は悪いこともご自分の計画のために役立ててくださいます。そこから良いものを導き出すことがおできになるのです。

 

これが私たちに与えられている希望、キリストと御父に賭ける希望です。その希望を持っている人はこの難しい時代を別の心で過ごすことができます。確かにいろいろな心配があります。しかし信者として、心配があってもそれは重荷になりません。どうしようもない世の中でもそれこそ主に希望を賭けて先に進みます。聖パウロが言うように、私たちは見えてではなく、信仰によって歩んでいます。先の先まで見ることはできませんが、ひとつ先のことだけ見えています。そこで主の導きを求めることが大切です。

 

いろいろな状態の中で、世界規模、社会規模のものを一人の力で変えることは無理ですが、それを諦めるのではなく、キリスト者は主によってこの中で教えていただけます。何をしたらよいのか。小さなことで、一歩先まで見えたらそれで十分です。主の導きを求め、それに導かれて一歩一歩進むなら、みこころにかなう歩みを進めることができます。主がそこでご自分の力をもっと示してくださいます。主はとくに今日私たちにそれを呼びかけておられます。人間は自然に恐れ、心配しますが、そのような環境の中で主に信頼して主の導きを求め、主に身を委ねることがキリスト者の忍耐のもとであり、キリスト者の歩み方、生き方なのです。