「私たちは大勢でも一つの体です。」

感謝の典礼の終わりに「交わりの儀」(コムニオ)があります。「コムニオ」という言葉はラテン語で「交わり」または「一致」という意味です。西洋教会では「コムニオ」という言葉は、以上の意味と同時にご聖体をも意味しています。こうした言葉の使い方はここで祝う神秘を表しています。つまり、「コムニオ」(ご聖体)を頂く全ての信者は「コムニオ」(交わり、一致)の関係に入ります。聖パウロは説明しています。

  

「私たちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。私たちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。パンは一つだから、私たちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです」1コリント 10 : 16-17。

 

大船教会では「ともに祈り、ともに歩もう」をテーマにしていますが、この「ともに」は単なる仲良しの意味ではなく、人間の集団が団結していることでもありません。つまり、人間が作り上げるものではなく、「コムニオ」を頂いた信者同志の「コムニオ」です。聖パウロが言っているように、私たちがキリストの体を受けてキリストの体になります。その意味では客観的な事実です。ただし、聖パウロが初代教会の信者に呼びかけたように、「既にあるものになりなさい」ということです。すなわち、客観的にある「コムニオ」が信者同志の関係で目に見える形で現れるようにしなさい、ということです。

 

そうなるには、私たちが共同体を助けて、共同体に助けられる必要があります。私たち一人一人がキリストにもっと深く結ばれれば結ばれる程、それだけ互いに結ばれた「コムニオ」になります。キリストがそれぞれの心を占めるなら、共有のキリストが何よりもの絆になります。それは共同体を助けることです。その反面、自分がキリストにもっと深く結ばれるには、自分の知恵や力ではなかなかできません。そしたら自分が他の信者の励まし、助言や祈りを必要とします。それは共同体に助けられるということです。

 

私たちはごミサで恵みを頂くと同時に使命をも頂きます。「行きましょう、主の平和のうちに」というごミサの終わりの言葉はその使命を示しています。主の平和は主の「コムニオ」から生まれるもので、私たちが日常生活の中でそれを会う人と分かち合うように派遣されている訳です。