年間第30主日 2022年10月23日

先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。

 

朗読箇所のテキスト(日ごとの福音)

 

第1朗読 シラ書 35章15b~17節、20~22a

第2朗読 テモテへの手紙二 4章6~8、16~18節

福音朗読 ルカによる福音書 18章9~14節

 

<お説教要約>

今日はキリストのもう1つの教訓のようなたとえ話です。

聖ルカは最初に書いています。

〝そのとき、自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対して、イエスは次のたとえを話された。〟

実は自分は正しい人間だとうぬぼれているという表現は、英語訳を見ればもう1つのニュアンスがあります。それは、神ではなく自分の正しさ、自分自身を頼りにしている人ということです。そこが大事なポイントです。それに対して徴税人は、もっと正しい態度を示しています。自分を正しくないと認めて、主を頼りにして、罪の中から心の中で主を仰いで主の憐れみを願っています。

 

でも、うぬぼれる態度と回心する態度の他に、もう1つの態度があります。中には人が自分の罪を思い出し、罪を見つめたら気分が沈んで落ち込みます。そういう心の状態の場合があります。その態度は望ましくないです。徴税人はその態度ではないのです。気分が沈んで落ち込む場合は、結局自分の罪を見つめているのですが、神を仰いではいないのです。自分の中でとどまる感じです。その意味では、うぬぼれる人と同じような勘違いをしています。自分の信仰の状態などを自分の目で見て、自分の思いで評価するのです。うぬぼれる人の場合は自分の目で見れば、自分の行いが正しいから、それを頼りにうぬぼれます。落ち込む人は自分の目で見れば自分の行いは悪い、自分の思いで自分はダメな人間、いけない信者と評価します。でもどちらも間違いです。主なる神から見るべきです。主なる神の思いで評価するべきです。主なる神の前では誰一人全く正しい人はいないのです。でも、誰一人救われようのない人もいません。聖パウロが言っているように、神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです。へりくだってそれを受けいれることも大切です。

 

でもそうだったなら、私たちに求められていることは、どうやって自分のことを主の目で見るか?自分の行いなどを主の思いで評価するか?ということでしょう。自分のことを客観的に評価することは難しいことです。もちろん祈りはとても大事です。もう1つは聖書を読むことです。聖書自体は、本当に私たちに神様のことを、どのような方か、どういうふうに見ておられるか?主のことを伝えています。そしてそれと同時に、聖書は人間に、人間の姿も示しています。人間はどういうものか、どれほど恵まれているか、どれほど神様から離れたせいで不幸になったかを示しています。神様の愛を深く知ることが第一だと思います。神様の愛の前で、神様の愛の目を通して自分を見るようになったら、もっと正しく自分を評価できます。愛のうちに自分の罪を落ち込まないで素直に認められるし、いただいた恵みの偉大さにも気づいて、うぬぼれないです。それは信仰の歩みにとって大事な要素です。

 

例えば集中して黙想する箇所をあげてみます。

 

詩篇103章

聖パウロのローマの信徒への手紙8章

エフェソの信徒への手紙2章

ヨハネの第一の手紙4章

 

このようなところはじっくり読んで黙想をして、心に留めて特に響く言葉を長い間繰り返して、思い巡らして、意味をもっと深く知ろうとして、主の助けを求めながら祈ります。そのような心で求めるなら、主は聖書の言葉を通して ご自分の愛をもっと私たちに示してくださいます。それによって私たちはもっと主の前で謙遜、主に頼る心が育ち、主の前で受け入れられて、主の愛に生き、その愛をまわりの人と分かち合うことができるようになります。