年間第28主日 2022年10月9日

先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。

 

朗読箇所のテキスト(日ごとの福音)

 

第1朗読 列王記下 5章14~17節

第2朗読 テモテへの手紙二 2章8~13節

福音朗読 ルカによる福音書 17章11~19節

 

<お説教要約>

今日は福音の中で、一つの理想というか、キリストが10人の重い皮膚病にかかっている人を癒してくださった話が語られています。その中の一人だけが戻ってきて感謝しました。この箇所は特に感謝するという意味をもっと深める機会になります。

キリストご自身がたずねます。「清くされたのは10人ではなかったか。ほかの9人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻ってきたものはいないのか」。外国人とはサマリア人のことです。一人戻ってきたのはサマリア人で、ほかの9人はユダヤ人でした。イエスの質問:「ほかの人はどこにいるのか」。注釈にあるようにサマリア人とユダヤ人とは別々の祭司を持っていたので、別々に出かけたのでした。祭司は病気が癒されたことを証明する役割を持っていました。

 

サマリア人が気付いて戻ったとき他の9人は彼と一緒にいなかったので、サマリア人は彼らを見なかったでしょう。9人のユダヤ人も途中で癒されていました。でも、9人のうち1人でも気づいたら喜んだでしょう。重い皮膚病は肉体的だけでなく精神的な苦しみを伴います。律法の規定によってその病気を持っている人は隔離され、ほかの人に近付いてはならないので、遠くの方に立ち止まったまま声を張り上げて憐みを求めて叫んだと書いてあります。厳しい面があります。

 

たしかに、嬉しくて喜んだのは有難いと思うのとちょっと違います。必ずしもそこまでいきません。幼稚園の子供を見て感じたことですが、小さい子どもに「欲しい」と言うように教える必要はありません。「すごい」と教える必要もありませんが、「有難う」という言葉は親や先生が繰り返して教えないと出てきません。子供は何かもらったら嬉しくなって喜ぶことがありますが、それを有難く思うことはそう簡単には出てきません。あっても自然に出てきません。感謝することは学ぶことなのです。どうして学ぶ必要があるのでしょうか。

 

人間は嬉しくなると自分のことなので喜びますが、感謝する場合ははほかの人を考えることからくるのではないかと思います。この人は私のためにしてくれたから、というふうに。もっと広い心が必要のような気がします。子供のことを考えると、「子は親心を知らず」です。子供は親の気持ちはわからないのです。親は大好きというというのはたくさんのことをしてくれるからであって、これは有難く思うこととは違います。親の気持ちをそれほどわからないので、親の気持ちをそこまで感じません。教えなければそこまでわからないからです。大きくなると初めて親心を身をもって経験するので親になるとはどういう事かがわかってきます。自分の親に対する思いも変わってきます。そこからもっと心からの感謝が湧いてくることが多いと思います。親も子育てをこんな風にしてくれたと思い出したら感謝するようになります。これは大切なことです。

 

主の前で、主なる神の気持ちを私たちはわかっていないのではないでしょうか。完全にはわかっていませんが、自分よりも主の方から見るともっと広い心が必要です。主はここで病気を癒してくださいました。それほどの経験を私たちはもたないかもしれませんが、中にはいただく人もいます。しかし、もっと深いところで、キリストが十字架の上で私たちのためにいのちを捧げてくださったことを教会は繰り返し宣言しています。私たちはそれを信じます。それは、私たちに神の愛が示してくださったからなのでした。神の愛が示されていると頭でわかっていてもどこまで感謝する気持ちがあるでしょうか。ここでも感謝を学ぶ必要があるという気がします。

 

ひとつには、自分が感謝しようと意識すること。キリストが私たち、けっきょくそこには私も含まれていますが、私のために罪の赦しのため、私にいのちを与えるためにしてくださったということ、それをもっと心にとめる必要があります。そうすればもっと気づきがあると思います。主からの様ざまな恵みを思いめぐらすことは一つ大事なことです。いただいた恵を思いめぐらすなら、私たちの意識が変わってきます。そして、自分が主に愛されていると実感するのではないでしょうか。主に愛されていると実感したらもっと自然に恵みを感謝するようになり、感謝の内に生きるようになると思います。