年間第27主日 2022年10月2日

先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。

 

朗読箇所のテキスト(日ごとの福音)

 

第1朗読 ハバクク書 1章2~3、2章2~4節

第2朗読 テモテへの手紙二 1章6~8、13~14節

福音朗読 ルカによる福音書 17章5~10節

 

<お説教要約>

今日の箇所では、キリストのびっくりするような答えが出てきます。弟子たちが「わたしたちの信仰を増してください」と頼むと、キリストは答えます。「もし、あなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。」これは極端な言い方ですが、注釈にもあるように「誇張されたたとえで、信仰がすべてを可能にすることを教える」。文字通り、奇跡を起こすことも含まれています。

 

教会の歴史の中では、キリストの宣教活動でそういうところがよく見られます。ただ、奇跡を起こすことそれ自体は一番大事ではない。聖パウロははっきり断言しています。「もし私に山を動かすほどの信仰があるとしても、愛がなければ無に等しい。」だから奇跡を起こすことは、愛がなければ神様の前でそんなに価値はない。むしろ些細なことでも「愛を込めて」するなら、それは神様の前で価値あるものなのです。ちょうど10月1日に記念する「小さき花のテレジア」の大事な教えです。日常茶飯事のことを愛を込めてするなら、それこそ主に喜ばれることです。今日の箇所の前後からも、それがわかります。弟子たちがこの質問をする前の福音書を読むと、そこでイエズスはゆるすことを教えています。「一日に7回でもゆるしなさい」と教えています。それを聞いた弟子たちは「私たちの信仰を増してください」と頼みます。奇跡を起こすことより信仰に基づいてゆるすという愛のわざのほうが大事だと聞いて、弟子たちは自分の信仰が足りない、そこまでできないと感じたのでしょう。自分自身の弱さのことです。その場合でも信仰がすべてを可能にすることには変わりがなく、ある意味では奇跡を起こすことよりも自分の心を入れ替えることのほうが難しい場合もよくあるんじゃないかと思います。

 

更にこの箇所を読み続けると、イエズスはもう一つのたとえを話し、それを通して、信じることのもう一つの要素を教えています。「謙遜」、それは本当に信仰にとって重要なことです。キリストは教えます。「自分に命じられたことをすべて果たしたなら、『私どもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」このたとえを通してキリストが指摘していることは、たぶん当時のファリザイ派を指しているんじゃないかと思いますが、そういう誘惑を私たちも受けます。どちらかというと、特に熱心な信者が受ける誘惑だと思います。その人々は一生懸命信仰生活を送っているけれど、何か自負するというか、自己満足になる誘惑です。または、主なる神に恩を着せているかのような、主なる神が自分に借りがあるかのような気持ちになるように誘惑されます。そこで謙遜の心が必要です。キリストが言っているように、まず私たちはすべて恵みをいただいている者です。最初から最後まで恵みです。私たちの存在、命、健康、才能…それは全部恵みです。その上キリストを通して、罪のゆるし、永遠の命…そういうすごい恵みをいただいています。だから私たちはいくら熱心に主に仕えるとしても、それはちょっとした恩返しにすぎないのです。「主なる神は寛大な点で決して負けない。」私たちが今までに戴いたすごい恵みに対してちょっとした恩返しのつもりで主に仕えても、それに対して主なる神は豊かに恵みを加えて与えてくださるのです。その意味で、寛大な点では主に勝つことはないのです。いくら主にあげようと思っても、自分は戴く身にすぎないのです。

 

そう考えることで、わたしたちはもっと謙遜になります。聖パウロが説明しているように、「すべては恵みです。」そして彼自身もその謙遜さを示しました。自分がほかの人たちよりも働いたと言った後で、「実は働いたのは私ではなく、私のうちにある主の恵みです。今私があるのは、その恵みによるのです」と言っています。それは特に今日の大事なメッセージだと思います。