信仰の神秘

前回テーマにした「ことばの典礼」の場合は聖書の朗読が中心ですが、「感謝の典礼」の場合は奉献文が中心です。「奉献」という名前からわかるように、献げる祈りです。前回はそれにも触れました。「キリストが教会の手を通してご自分を、そのからだである私たちが聖霊においてキリストを、御父に献げて礼拝しています。」ここで「これは私の記念として行いなさい」というキリストの言葉を理解する必要があります。実はキリストはただ一度ご自分を献げました。

 

 

「キリストがそうなさったのは、大祭司が年ごとに自分のものでない血を携えて聖所に入るように、度々御自分をお献げになるためではありません。もしそうだとすれば、天地創造の時から度々苦しまねばならなかったはずです。ところが実際は、世の終わりにただ一度、御自分をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現れて下さいました」ヘブライ人への手紙9章 25節~26節。

 

実はごミサにおいて聖霊はキリストの唯一の、繰り返すことがあり得ない、いけにえを現存化します。これは「記念として」の意味です。人間の理解を超える「信仰の神秘」でもあります。時空を超える神秘で、当時ユダヤにいた人だけではなく、私たちもその神秘にあずかってキリストと一緒に自分も御父に献げます。

 

これはあいさつの変化にも関連しています。司祭に対して「また司祭とともに」の代わりに今後「またあなたとともに」と会衆が答えるようになります。原文では「またあなたの霊とともに」になっています。その意味は、一人間としての「あなた」ではなく、叙階の秘蹟を通して教会の代表者、キリストの代理者になった「あなた」です。司祭一人が奉献文を祈りますが、それは個人的にではなく、教会の代表者として教会の祈りを御父に献げています。そして聖変化の時に、キリストの代理者としてキリストご自身の言葉を繰り返したら、キリストご自身がパンをご自分の体に、ぶどう酒をご自分の血に変えます。これも「信仰の神秘」です。こうしてキリストは、昔人にご自身を渡されたように、今日生きている私たちにもご自身を渡されます。