年間第24主日 2022年9月11日

先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。

 

朗読箇所のテキスト(日ごとの福音)

 

第1朗読 出エジプト記 32章7~11、13~14節

第2朗読 テモテへの手紙一 1章12~17節

福音朗読 ルカによる福音書 15章1~32節

 

<お説教要約>

今日の聖書の箇所はとくに主の憐みについて語っています。ルカの15章。放蕩息子の話がありますが、今回はその前の二つについて話しましょう。ファリサイ派の人たちははキリストにどうして罪人とつき合うのかと問いただし、これに対してキリストはご自分の活動を説明しています。主なる神はこのような方です、つまり罪人を探して連れ戻そうとする方です、と。この態度はすでに旧約聖書にも見られるものですから、ファリサイ派の人もわかっていたはずです。

 

神はいつも預言者を通して回心を呼びかけ、立ち帰るなら赦し、救って下さると固く約束してくださいました。キリストもそれを勧め呼びかけておられます。しかし呼び掛けるだけでなく進んで人を探しに行くために神はおん独り子をこの世に遣わされたのでした。これは第二朗読で聖パウロが言っていることです。

「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実である、とパウロは言っています。キリストの目的、使命はそれでした。これは本当に心強いことです。その意味で主は喜んで赦して下さいます。キリストは喜びを強調されます。主なる神は赦したい、ご自分と和解させたいと思っておられるのです。

 

一つ注目すべきことは赦しと和解の違いです。この二つは同じではありません。人間的にもそうです。2人の友だちがいて、その一人が何かで相手を傷つけてしまったとします。でも彼はあとで反省して、赦してほしいと頼みますが、もし相手が赦さないとすればこの場合は和解には至りません。こういうことを私たちもいつか経験したかもしれません。

 

しかし実際には、反対の場合もあります。赦しても相手が赦しを受け入れない場合もあるのです。或るアメリカの女性の話ですが、夫から暴力を振るわれて傷ついてしまいました。しかしこの女性は信仰深い人だったので忍耐し、祈って立ちあがりました。そして、夫に向ってあなたを赦しますと言いましたら夫は返って怒ってしまったというのです。赦そうとする人とその赦しを拒む人。ここには一方からの赦しがあっても和解までいきません。

 

なぜ赦しを拒むのですか。一つには受け入れるには謙遜が必要だからです。人間はある程度謙遜でないと赦しを受け入れようとしません。赦しを受け入れるとは自分が悪かったと認めることが前提となっていますが、それを認めたくない傲慢な心であれば、赦すと言われると有難く思うより嫌がるのです。自分は悪くないから赦される必要がないと。

 

赦しを受け入れることはその人が変わることが前提になります。心から反省して赦しを願っているならその人は同じ過ちを認めて2度としないと決心しています。また同じことをするつもりなら赦しはないでしょう。本当の回心をしていないことになります。和解でもありません。嘘のみです。表面的だけになります。本当の和解は、本人が自分の落ち度を認めて、今後はそれを退けて変わる必要があります。自分のやり方のほうがいいと思う人は赦されたくないわけです。心を頑なにしていると、その態度は人間の傲慢と自己中心的なところから出てきます。

 

今日の福音には一つの問いかけ、注意点、があります。キリストは喜んで赦してくださいます。罪を犯してしまったとき赦してもらえるかどうかは全然問題ではありません。主は赦したいのです。和解するにはすべて私たちの方の問題です。赦されたいという謙遜、回心、自分が悪かったと認める謙遜と、2度と同じ過ちを繰り返すまいというの回心が必要です。その覚悟があるかどうかです。そこがひっかかるところです。主に心を開くならすぐに、必ず赦されるのです。それなら主を求めることがすごく大切です。自分はどこまで主を求めているか、どのくらい和解を望む気持ちがあるか、それを私自身わかっていますか。主はずっと待っておられます。ですから意識して主を求めるならそれ自体が主に心を向けることになります。心を開いているなら主の赦しをもっと心から受け入れるようになるでしょう。