年間第23主日 2022年9月4日

先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。

 

朗読箇所のテキスト(日ごとの福音)

 

第1朗読 知恵の書 9章13~18節

第2朗読 フィレモンへの手紙 9b~10、12~17節

福音朗読 ルカによる福音書 14章25~33節

 

<お説教要約>

今回のキリストの言葉はかなり厳しい言葉です。前にも話したと思いますが、キリストのあらゆる言葉と行いは私たちの救いのための愛の表現です。キリストが優しい言葉を話される時も愛の表現ですが、厳しい言葉を話される時は私たちのためを思うその愛から話される言葉です。その意味から今日の言葉を理解したいと思います。

 

一つの誤解を解くために一つの表現があります。キリストはここで自分の父、母、妻、子ども、兄弟姉妹、自分の命まで憎むようにと言っています。憎むようにという表現はひどい言葉として感じるかもしれないので、今日の注釈は大切です。「憎むはここでは、より少なく愛するという意味です。」他の誰より身近な人であっても、その人よりご自分を愛することをキリストは求めています。それは厳しい言葉ではあってもひどい言葉ではないのです。考えてみると、キリストがまず先にこれを実践されました。自分の十字架を背負って行きました。特に聖母マリアに対して、そういう身内に対する態度を示したのです。たぶん聖母マリアはキリストの受難を見ることは、もう耐えがたい苦しみだったと思います。キリストも自分の母がそのように苦しんでいるのを見て、自分の苦しみが増したと思います。でもそれなのに、キリストはあえて十字架の道を歩んで命を捧げたのです。聖母マリアを憎んだという表現もユダヤ人の言い方ですけれど、聖母マリアより御父のみ旨を行ったということです。御父の私たち人間に対する愛のために、そこまでしてくださった。自分の母に対してもキリストはその態度を示してくださったのです。

 

私たちにとっては、それはどういう意味でしょうか。たぶん多くの場合、私たちには文字通りにそこまですることは求められませんが、文字通りに求められる場合もあって日本の殉教者もそうです。文字通りに自分の命よりキリストを愛するように求められ、文字通りに自分の十字架を背負って苦しみを受けました。私たちにはもうちょっと比喩的な意味で、生活の中で。その態度については聖ベネデイクトが言っている通り「何ものもキリストに優先させてはならない」、第一にキリストです。もちろん私たちは普通の生活を捨てるわけにはいかないし、世界の中社会の中に住んでいるキリスト者には社会生活や家庭生活を送る責任があります。勝手に捨てるわけにはいかない。ただ、生き方がそこで問われます。「何ものもキリストに優先させてはならない」、すべてキリストのためにするのです。私たちの家庭生活も社会生活もキリストのために送る、キリストを第一にする。そしてそれは正しいことです。知恵の声です。第一朗読では知恵のことにも触れていてはっきり言われます。「主なる神が知恵を与えてくださらなければ、人間は本当のこと、神のみ旨、み心を知ることはできない」のです。

 

キリストはそのことを私たちに示してくださったのです。第一にキリストのために生きることは、この世でも凄い恵みを戴いてこの世を去った後でも永遠の命に入ります。正しく知恵に満ちた生き方とは、終わりから始めて人生を送ることです。そしてその終わりはキリストが示してくださいます。永遠の命、身体の復活…信仰宣言の中で私たちが宣言することです。それを心に留めて希望の内にキリストを第一に生活するように、キリストは私たちに求めています。それはやはり厳しい言葉でもあるけれど、約束でもあるのです。キリストはそう生きるように、今もこの人生の間でもたくさんの恵みを与えてくださる。人が信じられないような恵みも既に戴けるのです。でもキリストを後回しにして他のことを優先させるなら、キリストを信じていながらキリストが与えてくださる恵みをそこまで戴かないことになります。

 

私たちはキリストに従うように呼ばれています。キリストがそういう召し出しを与えてくださること自体は、自分のためであるより私たちのために。キリストは私たちに弟子としてついてくるように求めています。確かに苦しみも苦労もあるでしょうし、十字架を背負っていくことはそれも指しています。でもそれよりも、キリストは私たちを完全に幸せにするために呼んでおられます。弟子としてついてくるように言われています。