年間第22主日 2022年8月28日

先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。

 

朗読箇所のテキスト(日ごとの福音)

 

第1朗読 シラ書 3章17~18、20、28~29節

第2朗読 ヘブライ人への手紙 12章18~19、22~24a

福音朗読 ルカによる福音書 14章1、7~14節

 

<お説教>

今日の箇所は、キリストが表面的に単なる世間的な知恵や道徳の話をしているみたいです。宴席のどの席に座るかのアドバイス、社会人の心得みたいな話です。しかしキリストの関心はそのようなレベルではありません。

まず、神様との関係です。それはあとの言葉に見られます。

「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

表面的に考えたら、たとえの教訓みたいに受け止めることができますが、その深い意味がそこに現れています。注釈にあるように、この受動形は、神が行為の主体であることを示す表現です。当時のユダヤ人は、主なる神に対する畏れ敬う態度から、主なる神の名前を口にすることさえ遠慮していました。名前を口にしないで主なる神のことを話す為に、いろいろな言い回しがあり、受動形の動詞の形にしているのは、主語をはっきり言わないユダヤ人の習慣として、主なる神が主体であると示しています。

 

そこでキリストは社会的心得から主なる神との関係に持っていきます。高ぶる者は主なる神が低くしてくださり、へりくだる者は主なる神が高めてくださるのです。人間同士の前のへりくだりより、一番大元は主なる神の前にへりくだることです。聖書全体を通しての大きなテーマです。

 

原罪のアダムとエバの最初の罪は傲慢の罪です。蛇に誘惑されて神のようになろうと、被造物としての自分を受け入れないで、自分の力で自分の思いで、もっと優れたものになろうと高ぶる心がアダムとエバの罪の大元です。その結果として神様から離れてしまったのです。主なる神の元の計画は、アダムとエバは忠実を尽くしたら、あとでもっと高めてくださるように計画をしておられたのです。忠実を尽くさなかったから、主なる神はなさらなかったのです。アダムとエバは自分の力と思いでしようと思ったことは、結局全然できなかったのです。このように皮肉なところがあります。もし、主なる神に聞き従っていたら、自分の思いをはるかに越えて高めていただいたのに、結局、罪の愚かさです。罪により私たちは損をします。主が与えたいと望む恵みをいただかないで、自分が自分の力で得ようとすることも得ないで、失敗です。だから聖書は、罪を犯すことは、愚かなことですと言っています。

 

でもどうやって私たちはへりくだるか?へりくだることは簡単ではないです。例えば、言葉でへりくだる。日本語では謙遜語がすでにあります。人がそれを使うことによって少なくとも表面的にへりくだっている感じです。ただ、本当の謙遜は、やはり心のことです。表面的に言葉でへりくだっても、心がへりくだっていなければ、本当の謙遜にならないのです。謙遜は、キリストの教えの大事なところです。貧しい人は幸い、柔和な人は幸い、という言葉も謙遜の人のことを指しています。ではどうやって本当にへりくだるか?私たちは人生の中で、へりくだる機会が与えられています。その機会を利用したらいいです。これはへりくだる機会と気づかないことが多いです。例えば、人をゆるすことは、へりくだる機会です。誰かにきついことを言われたら、怒ってしまい、その言葉をゆるしたくないです。人がゆるしたくない心は、究極的にきわめると傲慢の心からきます。人が私を傷つけ、不正なことを行ったら、私に対する負い目があるのです。私が被害者になるのに、その人をゆるすものか、と言いたくなります。傲慢であればあるほど、人はゆるしがたい、ゆるそうとしないです。私が傷ついたらそれは、へりくだる機会でもあるのです。人はへりくだらなければ、相手をゆるすことはできないのです。私たちはこのように気づかない機会が与えられているのです。

 

でも、キリストの約束は忘れてはなりません。へりくだるものは高められる。私たちもアダムとエバと同じように自分の思いと力で優れたものになりたいところがあります。でも、アダムとエバの過ちに習ったら、むしろ主なる神がキリストを通して示された豊かな恵みを感謝しながら、キリストに聞きしたがって、私の思いをはるかに越える栄光、その報いを希望することができます。へりくだるなら主が私たちを高めてくださるのです。