年間第19主日 2022年8月7日

集会祭儀のためのマルコ神父様お説教文です。

 

朗読箇所のテキスト(日ごとの福音)

 

第1朗読 知恵の書 18章6~9節

第2朗読 ヘブライ人への手紙 11章1~2、8~19節

福音朗読 ルカによる福音書 12章32~48節

 

 

<お説教>

ここ何年間は大船教会のテーマは「共に祈り、共に歩もう」です。私たちは共に祈ってはいると思いますが、どれほど共に歩んでいるでしょうか。歩みは足踏み状態ではないです。共に歩むとは遠足ではないです。元の場所に戻りません。一緒に同じ目的地を目指して先へ進むことです。

キリストは今日の福音の中でその目的地を示しています。それは父が下さる神の国です。地理的な場所ではありませんが、私たちが今まで一度も行ったことのない、私たちの本当の故郷です。確かに特別な故郷です。そこで生まれ育って今も懐かしく思うところという意味の故郷ではないです。むしろ、私たち自身がそこに住む為に創られて、そこ意外のいかなるところでは完全に自分らしく、完全に幸せになれないという意味の故郷です。この世ではそれぞれの人は様々な故郷があります。信仰の歩みをしている私たちは皆故郷が同じです。だから、共に歩むとは神の国に向かう一緒の巡礼の旅です。そして特別な歩みです。歩いて空間的に道を進んで行くという意味の歩みではありません。新しい気づきによる意識の変化、新たな決心による生き方の変化、心を開いて自分を更に与える精神的な変化という意味の内面的な歩みです。

 

「あなた方の富のあるところに、あなた方の心もあるのだ。」全ての人は何かを大切にして生きています。それは「生きがい」と言ったり「目標」と言ったりします。信仰の共同体として共に歩むとは、キリストを私たちの共通の「富」にして、キリストを益々あらゆる祈りや活動の「目標」にして、心をキリストに留めることです。

 

「腰に帯を締め、ともし火を灯していなさい。」これは待ち構える態度を表す姿勢です。今日の福音の例えではキリストの再臨を待ち構える態度を示しています。ただし、私たちにとって、もう一つの意味があると思います。信仰の歩みにおいてキリストは私たちの「目標」だけではなく、私たちの「導き手」私たちの「牧者」でもあります。その意味で私たちは自分の思いでキリストに従うのではなく、キリストの導きを待ち構えるべきです。キリストを共通の「目標」にしても、もし私たちはそれぞれの人間的な思いでそうするなら、バラバラの歩みになって、「共に」歩むことになりません。だからキリストに「主よ、あなたの道を示してください」と共に祈り、主が示してくださるのを待ち構えたら、私たちは一団となって、良き牧者であるキリストに従って、共に歩むことになります。