私たちはキリストの体、一人一人はその部分です。

 

ご存じのように今年の待降節の第1主日からごミサの新しい翻訳が使用されるようになっています。替わった言葉に慣れることだけではなく、これを機会にごミサそのものの意味をもっと深く理解するように準備しています。そのためにカトリック新聞に、なぜ言葉が替わったか、その意味を説明する記事が毎月載せられてきました。大船教会の典礼部がそれを要約して「おとずれ」に乗せてきました。9月から11月まで私は主日のごミサの後で五分程度の説明を段階的に進めていく予定です。そして11月号までの巻頭の言葉をこのテーマに当てたいと思います。

 

キリストの復活の日に基づいて、教会の始めからキリスト者は毎日曜日に集まって感謝の祭儀を執り行ってきました。その為に日曜日は「主の日」すなわち「主日」と呼ばれるようになりました。紀元304年にローマ帝国のディオクレチアン皇帝が日曜日に集まるキリスト者を死刑にすると宣告していましたが、現在のチュニジアにあったアビテネ村で49人のキリスト者が感謝の祭儀の最中見つけられて逮捕されました。なぜ皇帝の命令に逆らったかと尋問された時、代表の者は「主日なしでできません」と答えました。そして49人とも殉教しました。それだけ主日の祭儀を大切にしていました。

 

命がけで主日の祭儀を大切にした49人の気力に感心します。やはりそこまでする人は自分の弱さを十分意識してキリストに頼り切って生きている人です。自分の力でちゃんと生きていかれると思う人はそこまでする必要は先ず感じないでしょう。他のキリスト者と一緒になって主のみ言葉と主の御体に次の週を生きていかれるだけの力を心から求める人にとって「主日なしでできません」と言うことになります。

 

根本的にキリストとキリスト者の二人きりの関係はありません。私たちは決して個別にキリストに結ばれているわけではありません。聖パウロが説明しているように、私たちは共同体としてキリストに結ばれて、キリストの体になって、一人一人はその部分です。(1コリント12章を参照。)実際に教会まで行かれるのに、家で祈っているから、ごミサに参加しなくてもいいと思うのは大きな過ちです。共同体として主に祈ることは本来的です。個人的な祈りは、キリストの体に属している者としての祈り、集まれる間をつなぐ祈りです。そのためにごミサが行われない時でも、「集会祭儀」という共同体として集まって祈る祭儀が準備されています。やはり、「主日なしでできません」。