年間第13主日 2022年6月26日

先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。

 

朗読箇所のテキスト(日ごとの福音)

 

第1朗読 列王記上 19章16b、19~21節

第2朗読 ガラテヤの信徒への手紙 5章1、13~18節

福音朗読 ルカによる福音書 9章51~62節

 

 

<お話の要約>

きょうは、キリストのご自分に従う弟子の姿について話しています。〈聖書と典礼〉にあるように、今回読まれる箇所は、キリストが受難を予告してからエルサレムに行って受難に向かう場面で、そこでその従う人の有り様、やり方を示しています。かなり厳しいことばがあるんです。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」。家族との別れもしないで福音を告げ知らせなさいと。そういうようなことを要求しています。

 

 

そこではひとつ、キリストが与える恵みは大きいです。でも、要求も大きいです。キリストご自身がそのことについて話したんです。多く与えられる人は、多く求められる。だから、その意味では、恵みが大きければ要求が大きいことは当然と言いましょうか。それは、結局、本当の愛のわざです。本当の愛は、確かに寛大です、与えます。でも要求もあるんです。たとえば、親だったら、その子どもが自己中心的になって非行少年の道に走って欲しくないんです。それは、親が子どもを愛していないからでしょうか。いいえ、そうではないでしょう。愛しているからこそ、その子どものことを考えて、そういう要求があるんです。キリストもそうです。

 

ただ、わたしたちは、場合によっては、そういう要求がわかりにくい。キリストに愛されているということがわかりにくいという場合もあるかも知れないんです。でも、その場合は、キリストに愛してほしいというより、甘やかしてほしいという心が動くのだと思うんです。自分は今のままでキリストに愛されたい。愛は愛を呼びます。それは愛情のこともあるし、本当の愛だったら本当の愛を呼び覚まそうとする。本当の愛は、キリストの愛に応えてキリストが歩まれた道を歩もうとする心です。でも、それは勿論、なかなか難しい面もあります。特に、社会生活において。

 

ひとつは、たとえば、近所との付き合いとかいろいろな学校関係とか、そういう場でも難しい面も出てくるんです。自分の信仰を守って、周囲のいろいろな期待とか要求もあるんです。信仰と合っているようなものであれば、それほどではないけれど、中には合わないようなものが出てきます。ひとつ具体的には、社会では、日曜日の朝はいろいろな計画が立てられます。でも、キリスト信者としてミサの参加を大切にすべきです。そこのところは、どちらを選ぶか、そこではキリストに対する愛も試されます。場合によっては、土曜日のミサに参加するとか、そういうような工夫もできるんです。今はちょっと、当番制で難しいけれど、そういうこともいずれ状態は元に戻ると思います。

 

でも、たぶん、それよりもっと厳しい環境といえば、会社に勤めている人。会社の中でいろいろな仲間との関わり、上司の要求とか、そこにはやはり信仰と合わないところが出てくる可能性があるんです。それだったら、もっと難しいです。周囲の見る目の問題だけではなくて、会社の中で自分の仕事が取り上げられるとか馘になるとか、そういうような恐れを伴う場合もあります。そういうようなときは、キリストに忠実に生きることは、本当に難しくなります。でも、それだったら、やはりわたしたちの知恵と力では足りないんです。そこでも聖霊の助けが必要です。聖霊の助けを本当に求める必要があるんです。

 

でも、どちらかというと、どこまで本当にキリストに従いたいのか。そこがまず前提です。困らない範囲でキリストに従おうというのなら、そういう混乱のときでも、導きとか力をそんなに求めないんです。結局、妥協している感じです。本当に心からキリストに従おうと、本気になってする場合は、そこで問題はもっと深刻になるんです。特に、生活に関するものになるんです。その場合は、やはり主の知恵と力を求めるでしょう。極端な場合は、別の仕事を探すことにもなるんです。本当にそこまでキリストの信仰と相容れないようなものを要求されたら、それはやむを得ないんです。そこまで行かない場合でも、どうやって両立していくのかがすごく大事です。

 

キリストに従うことは、キリストはすべて求めます。どちらも困らない範囲だけだったら、本当のキリストの弟子になりきれないことです。それは厳しいといえば厳しいけれど、主ご自身が要求することです。でも、繰り返しますが、自分の知恵と力では解決は無理です。それも弁える必要があるんです。まず、本当に本気でキリストに従いたいと思うか、そういう望みを大事にしなければ何もならない。でも、それがあれば、そこで心から主の知恵と力を求めるべきです。それだったら、主ご自身が導いてくださって、その計らいの中で道が開かれます。何があっても。仕事を変えることになっても、別の仕事の機会を主が与えてくださることが十分できます。そこでは、信仰が試されることになる。でも、主に信頼して従おうとする人を主はそういうふうに導いて、力づけてくださいます。