三位一体の主日 2022年6月12日

先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。

 

朗読箇所のテキスト(日ごとの福音)

 

第1朗読 箴言 8章22~31節

第2朗読 ローマの信徒への手紙 5章1~5節

福音朗読 ヨハネによる福音書 16章12~15節

 

 

<お話の要約>

「父と子と聖霊のみ名によって」私たちは習慣的に祈りを十字架のしるしではじめます。十字架のしるしの意味はあまり考えていないのではないかと思います。実は十字架のしるしを通して私たちは二つの大事な神秘を宣言しています。キリストの十字架(十字架による私たちの救い)それに三位一体の神秘。今日祝っている神秘です。言葉によってそれを宣言しているのです。私たちは「父と子と聖霊と」その三つの名前をあげてその名によって祈っています。日本語では伝わらないのですが、英語など他の言葉をみれば、名という名詞は単数です。父と子と聖霊の三つの名前をあげながら単数。単数の名によって一体をさしています。この三位一体の神秘は主なる神ご自身の内面的の存在・ありさまをさしているから人間の理解をはるかに超えています。

 

三位一体のことば自体は聖書にのっていません。今日の福音にあるように三位一体のことはキリストがまだ言っておきたいことの中のものだったのです。でもまだ弟子達は理解できないから言わなかったのです。教会は後にその神秘を深めて宣言するようになったのです。それは真理の霊の働きで。真理の霊は教会を導いて三位一体の神秘の真理も教えてくださったのです。この神秘は人間の理解を無限に超えているから人間の言葉で言い表すことができても説明しきれない。言い表すといえばこういうことになります。「父は神であり子は神であり聖霊は神である。父は子でも聖霊でもない。子は父でも聖霊でもない。聖霊は父でも子でもない。でも神は唯一。分かつことのできない唯一の主なる神です。」でも言葉で説明しきれません。ただその神秘は私たちの信仰の根本的なところです。

 

聖トマスがいうにはすべての私たちの信仰は二つの神秘に基づいています。この三位一体の神秘とキリストの受肉の神秘です。他の神秘は二つの神秘から派生している感じです。でも説明できないとしても私たちの信仰を照らします。それはまるで太陽のようなものです。私たちは太陽を肉眼で見つめることはできません。あまりにもまぶしくて。人間が肉眼で太陽を見つめるなら視力を失ってしまいます。でも太陽の光でこの世のあらゆるものが見えます。そのようなものです。私たちは三位一体の神秘を直接見つめて理解することはできませんが、三位一体の光によって他のことがわかるようになります。その光で私たちの心を照らされて信仰の色々なところが見えるようになります。

 

たとえば聖書は神は愛であると断言しています。それを理解するために三位一体は重要なところです。愛することは誰か相手がいないと愛することはできないのです。全くひとりぼっちの人、人と接することのない人はどうやって愛するのでしょう。でも神さまは永遠の方で宇宙万物を創る前からでもすでに神は愛である。どうやって神であるか。この三位一体でしめされます。神は永遠から全く一人でありながら三位であるから父と子と聖霊は愛し合い、その愛の交わりは三位一体の神さまの愛である本質をさしています。そして主なる神は私たちをその交わりに招き入れようとしています。私たちは三位一体そのものを理解するより三位一体の働きを理解すべきです。たとえば今日の朗読にあるように聖霊は私たちを真理に導きます。キリストが説明しているように聖霊はキリストのものを受けて私たちに告げています。でもキリストのものは全て父のものでもあるから、結局キリストのものも御父のものも聖霊が告げています。そういうふうに三位一体全体が働いています。

 

第二朗読にあるようにキリストによって私たちは御父との間に平和を得ています。そしてその平和を得た私たちに聖霊が神の愛を注いでくださった、そこでまた三位一体の働きがしめされています。イメージとしては御父はこの世を救うとお決めになったとき御子キリストと聖霊を遣わしたのです。まず御子が遣わされて受肉して人間となられて救いのわざを成し遂げられました。御父はまたキリストの名によって聖霊を遣わして、聖霊は人間をキリストの救いのわざにあずかるものにしました。愛を心に注いでキリストに結んでくださるのは聖霊です。そういう意味では父から御子を遣わして御子の名によって聖霊を遣わして聖霊は私たちの心に働いて私たちをキリストに結んでくださってキリストのうちに私たちを御父のうちにとどまるようにしてくださった。そのようなイメージです。人間の言葉にしようと思えば、まるで父親が両腕で子を抱きしめる感じで、御父は一つはキリストと一つは聖霊によって私たちを抱きしめて自分のところにひきよせようとしています。それには私たちが受け入れる必要があります。御父は強制的になさる方ではないのです。私たちが自由に愛してほしい。そこが今日の三位一体の祝いの一つの教訓・考えるところです。三位一体の神は愛である。私たちも愛に招き入れたい。でも私たちは神さまの愛の交わりにどこまで本当に入りたいとのぞんでいるでしょうか。