聖霊降臨の主日 2022年6月5日

先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。

 

朗読箇所のテキスト(日ごとの福音)

 

第1朗読 使徒言行録 2章1~11節

第2朗読 ローマの信徒への手紙 8章8~17節

福音朗読 ヨハネによる福音書 14章15~16、23b~26節

 

<お話の要約>

今日の祝いの聖霊降臨は、復活節の締めくくりと言いましょうか、昔から「教会の誕生日」とも言われています。というのは、この聖霊が降ったことによって使徒たちは上からの力に強められて福音宣教活動を始めて、その日のうちに3千人も洗礼を受けたと伝えられているからです。そこから教会は一つの団体として発展していきます。その歴史的な出来事を記念していますが、どちらかというと、今の私たちにとっての意味をもっと深めていく必要があると思います。

 

特に聖霊降臨のことを考えたら、私たちの生活における聖霊の働きは凄く重要です。これは一つの鍵になる。特に今日の第二朗読、聖パウロのローマ人への手紙はとても大切です。聖パウロはそこで、肉の支配下にいる人、肉に従って歩む人と、霊に従って歩む人とを区別しています。肉と霊と言うと少し分かりにくいかもしれませんが、今日の「聖書と典礼」の注釈に書かれている通り、「肉と霊は肉体と精神を対比しているわけではない。神とのつながり無しに生きることは肉に従って歩むことであり、神によって生かされることを意識する生き方は霊に従って歩むことである。」人間の部分のことより神との関係のことを指しています。そうだとすれば、私たちはどこまで霊によって生きているか、霊に従っているかを考える良い機会になると思います。というのは、洗礼、特に堅信を受けたら確かに聖霊を戴きます。でも、聖霊を戴いても必ずしも聖霊によって歩んでいるとは限らないのです。聖霊を戴いても肉によって歩む可能性はあるのです。神様とのつながりを無しにして、またはそれを軽んじて生きる場合です。

 

一つのイメージとして、私たちの一番奥深い部分、自分自身の中心、心の奥深いところと言いましょうか、そこに一つの王座とか玉座があると想像してみましょう。そこは一番の中心で、自分の思いや望み、計画、期待、愛など色々なことが集中するところです。生きがい、ものの判断などの基準になる中心的なところ、それを決めるところです。では、その王座に座っているのは誰でしょうか?自分自身でしょうか?またはキリストでしょうか?それは結局、自己中心的に生きるか、キリスト中心的に生きるか、ということです。聖パウロの言葉で言うと「自己中心的に生きることは肉の支配下にいる者となり、肉に従って歩むことです。キリスト中心的に生きることは霊の支配下にいる者となり、霊に従って歩むこと」を指しています。

 

自分自身はどこまでそうであるかということは分かりにくいのですが、一つは自分の祈り方、祈るときはどのような祈りをするかに表れると思います。たとえば自分の祈りがほとんど願い事だけだったら、そこまでキリスト中心ではなく、キリストからもらいたいことを願っていることが多いと思います。でもキリスト中心に生きる場合は、願い事があっても、もっと感謝と賛美をするようになります。その祈りはもっと自然で、キリストからもらいたいと願うと同時に、キリストに喜ばれたい、キリストを求めて、どうやったらキリストに喜ばれるかを求めるのです。その違いによって、私たちの信仰の歩みはだいぶ違ってきます。聖霊の働きももっと違ってきます。人が自己中心的に生きる時は、自分の中の聖霊の働きは妨げられています。自由に聖霊が動かず、制限されます。でも、キリスト中心に生きる時は、聖霊の働きはもっと自由に自分の中で働くことができるのです。その状態は聖パウロが説明しているように、「神の霊によって導かれるものは皆神の子なのです。それは神の霊に導かれることです。」キリスト中心にすると聖霊にも導かれるのです。そして、神の子の意識ももっと強くなるのです。「アッバ、父よ」と叫ぶ聖霊は、自分の心の中でそう叫びます。ただ私たちは自己中心的である限り、そこまであまりいかないのです。

 

特にこの聖霊降臨の日には、教会の誕生日を祝いながら、自分の心を振り返る機会にもなると思います。もし自分がそこまでキリスト中心的でないと気づくなら、そこで心を新たにして特に聖霊の助けを求めて、自分がもっとキリストを中心として生きるように求めることは凄く大切で肝心なところです。