復活節第5主日 2022年5月15日

先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。

 

朗読箇所のテキスト(日ごとの福音)

 

第1朗読 使徒言行録 14章21b~27節

第2朗読 ヨハネの黙示録 21章1~5a節

福音朗読 ヨハネによる福音書 13章31~33a、34~35節

 

<お話の要約>

きょうの福音とそのほかの朗読は、私たちに主の復活、昇天の新しさと素晴らしさを示しています。キリストは、ユダが裏切りに出て行った後で、自分は栄光を受けると言います。ユダの裏切りによって、キリストの受難とそれに次ぐ復活と昇天の神秘が実現します。そこでキリストは完全に栄光を受けます。いまも御父の右に座してずっと支配しておられます。キリストが栄光を受けると同時に、新しい世界が始まるんです。これはキリストご自身のことだけではなく、キリストが私たちのために、ご自分の受難と復活と昇天によって、死を越える命への道、新しい道を開いてくださったんです。そして、その新しい道は、私たちの栄光にも至る道になるんです。

 

御父は、キリストに栄光をお与えになったように、キリストに属する私たちにも栄光をお与えになろうと望んでおられます。そのご計画です。それは、第二朗読に示された世の終わりのところで全部完成され、キリストにおいて新しい世界が始まり、世界はまったく一新されて万物が新しくなると、この幻の中で聖ヨハネは見ています。その中で、キリストに対する花嫁、それは教会のことですが、この栄光が描かれています。でも、そこに入るためには、キリストは私たちに新しい掟を与えます。「愛し合いなさい」と。

 

キリストが新しい道によって開かれたそこは、神の許(もと)、栄光のところは愛の世界です。私たちは、愛することを学ばなければそこまで行けないんです。そのためにも、聖パウロが説明しているように、私たちは主の恵みによって、特に洗礼の恵みをとおして、新しい人になります。この新しい人は、新しい掟を守って、キリストが開かれた新しい道を進んで、やがてまったく新しくなる新しい天と地に永遠に住むようになるんです。愛と平和と喜びの世界です。ある意味では、ここでは、キリストの復活に対する私たちの信仰が試されると思うんです。まずキリストがまこと復活されたか、復活されたことを信じるかどうか。それはひとつ根本的なところです。聖パウロが言うには、私たちがそれを信じなければ、私たちの信仰は無駄です。

 

キリストの復活を信じるということは、キリストご自身における出来事として信じるのではなく、私たちに対するその意味も信じることになるんです。場合によっては、キリストの身に起こった出来事としてキリストの復活を信じていながら、自分が新しい人になれるということを信じがたい場合もあります。自分の身にそれが起こりうるというのを信じるのに躊躇うときもあるんです。というのは、キリストの新しい掟を守ろうと思えば、かなり難しいです。そこで多くの場合はあきらめて、そこまでだけは出来るとか、または主の憐みに頼りましょうと、そういう自分に慰めのことばをかけるんです。でも、それは誤解だと思います。信仰が足りないところだと思います。

 

どうしてかと言うと、それはキリストの掟をひとつの義務として捉えている感じがします。確かに、義務として考えたら、かなり重いです。もう出来ないと確かに言えると思います。でも、キリストは決して無理なことは要求なさいません。ただ、キリストが掟を与えること、命令を与えるということは、恵みを前提として命令しています。ご自分において、私たちが新しくなって、新しい掟を守るように私たちを呼んでおられます。でも、私たちは果たしてどこまでそれを望んでいるでしょうか。そこが一番の問題点ではないでしょうか。私たちには様々な望みがあります。望みの深さ強さによってずいぶん違うんです。人が何か本当に強く望んでいる場合は、意欲的になって、それを必死になって求めるときは、あらゆることをするんです。それが出来ないとは、そんなに簡単にあきらめないんです。こうして出来ないとしたら、別の道を探します。でも、キリストにおいて、キリストが私たちを呼んでいるこの新しい生き方、生活を私たちはどこまで望んでいるでしょうか。

 

結局、それは私たちの何よりもの喜びでもあるんです。キリストに応えて、その恵みによって新しい人となった場合は、私たちはこの世でもうすでに神からの喜び、信仰の喜びを味わうことができるんです。ただ私たちは、ほかのことをもっと望んでいる限り、そこまで味わえないんです。私たちの心は、もっと集中的にそれを求める必要があるんです。

 

それはイスラエルにおいても見られたんです。イスラエルは約束の地に向かって進んだんですが、やがてその近くになると、戸惑って入ろうとしなかったんです。自分が怖くて、エジプトに帰ったほうがいいと。でも、そこに入ったら、そここそイスラエルの幸せを保証するところ、安住できるところです。私たちにも同じ戸惑いがあるかと思います。だから、この復活節をとおして、キリストの復活に対する信仰を深める機会でもあります。キリストご自身に起きた出来事を信じるだけではなく、キリストの復活によって私たち個人に開かれた新しい可能性、新しい道を信じて、それは私たちにも可能なものです。主の恵みによって。そして、それこそ私たちの喜びであると信じて求めるようになったら、主の復活の恵みにもっと与かるようになります。