待降節第2主日 2021年12月5日

先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。

 

朗読箇所のテキスト(日ごとの福音)

 

第1朗読 バルク書 5章1~9節

第2朗読 フィリピの信徒への手紙 1章4~6、8~11節

福音朗読 ルカによる福音書 3章1~6節

 

お話の要約

待降節に入って教会はクリスマスの祝いを準備しています。毎年待降節の第2主日と第3主日は、第1の到来を準備した洗礼者ヨハネの役割と活動、宣教について黙想します。今日の福音では、ヨハネの使命は旧約聖書でも預言されたものだと強調しています。聖ヨハネの生涯と活動はイザヤ書に書いてある通りで、そこからの引用もあります。預言書の内容だけでなく背景にも意味があり、注釈にもあるように、バビロン捕囚からエルサレムに帰る良い知らせ、そしてその帰り道の準備をするようにとの預言です。

 

でも考えてみると、私たちも捕囚です。人類全体の祖であるアダムとイブは楽園にいたのに、罪を犯して楽園から追放された。今の私たちの生活も、原罪の影響で主なる神から離れたところで生まれ育って暮らしています。ある意味で追放、捕囚のような状態です。だからその捕囚からの帰り道を準備するようにと、それが預言者への呼びかけであり、洗礼者ヨハネからの呼びかけでもあるのです。「悔い改めよ!」とは主なる神に立ち帰れということ、捕囚から帰ってふるさと祖国に行くようにということです。

 

教会は聖書に倣って、天国をふるさと祖国と呼んでいます。でもちょっと普通と違うのは、ふるさとと言えば自分が生まれ育ったところ、子どもの頃のことを思いだして懐かしく思うところというイメージなのに、天国は私たちが行ったこともないし見たこともない。今まで一度も見たことがないのに、どうしてそこが祖国と言えるのでしょうか。一つのヒントにこのような経験談があります。弧児として幼児施設に預けられた人の中には、親が完全に亡くなった人もいれば何かの事情で育てられない場合もある。もしその人が大きくなって自分の母親がまだ生きていると知れば、当然その母親に会いたいと思う。実際に会うことができたら、そこで自分の原点を見つけるのです。母親を見て、ああだから私はこういう者なんだともうちょっとわかると思う。幼い時から一度も会っていないとしても、そこに原点がある。

 

それより深い意味として、父なる神が人間を創られたのは、この世で生活した後天国に迎え入れるため。それは私たちの本姓に基づいて求めているところです。天国はすべて叶えられる場所です。天国に行けることは生きがいと言うより存在と言ったらいいのでしょうか…私たちはそのために創られて存在しています。今の世の中のあらゆる幸せへの憧れは、その心の表れです。どうしても人間はこの世のものに完全には満足できない。心を見つめたら、まだまだ求めているところはあります。それはやはり、私たちはこの世では旅人だからです。この世に生まれてしばらく暮らしてあの世に去っていく、通り過ぎる存在、旅人です。でもそれは無に帰るということではなくて、私たちは主なる神の元に帰る、故郷、ここに帰ることを意味しています。

 

この待降節はそのための準備になります。クリスマスの祝いは昔のこと―キリストの誕生によって希望が生まれた―を祝うのはもちろんですが、受けた恵みに感謝しながら願っているふるさと祖国を目指して歩み続けるようにと、この待降節は私たちを励ましています。今日の第2朗読にあるように、聖パウロはフィリッポの教会の信徒に当てた手紙の中で、彼らのために祈っています。聖パウロが今日、私たちのためにも同じように祈ってくださるようにお願いしたいと思います。また、私たちの守護の聖人聖アンナにも、私たちのために祈ってくださるように願いたいと思います。

 

聖パウロはこう言います。

「知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実を溢れるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。」そのような感謝のうちに、この信仰の歩みを続けましょう。そのためには見分ける力が必要です。どうしていいか戸惑う時もあるから、その知恵、そして愛がますます豊かになるように。特に待降節には、それを目指して道を歩むべきです。