「待降節は待望節でもあります」

 教会は待降節の典礼を通して私たちをイスラエルの救い主への待望の道を歩ませます。それは、やがて来るクリスマスの祝いがどれほど必要だったか、どれほど何世紀も待たれたかを私たちに教えるためです。その背景がわからなければ、クリスマスの喜びもわかりません。でももう一つの側面があります。私たちのために生まれたキリストは救いの恵みをもたらして下さいましたが、それを希望のうちに与えて下さいました。だから救いの完成を待ち望んでいる私たちにとっては、昔のイスラエルの待望を黙想することが自分の待望を煽ることになります。

新約聖書では救いの完成を「永遠の命」と呼んでいます。聖トマス・アクィナスが説明します。

 

「永遠の命は願望を完全に満たすものである。そこにおいては、全て至福なる者は、望み、希望したところを超えたものを所有するからである。その理由は、現世においては誰一人自分の望みを充足することはできず、また、いかなる被造物も人間の望みを満たすことができないからである。人間の望みを満たすことができるのは神のみであり、しかも、神は人間の望みを無限に超えておられる。それゆえ、人間は神のうちにのみ憩いを見出す。それはアウグスチヌスが『主よ、あなたは私たちをご自分に向けてお造りになりました。ですから私たちの心は、あなたのうちに憩うまで、安らぎを得ることができないのです。』と述べた通りです。。。」

 

「さらに、永遠の命は、全ての至福なる者の喜ばしい交わりによって成り立つ。この交わりは、誰もが全ての良いものを、全ての至福なる者と共同で所有することのゆえに、最高に楽しいものとなるであろう。それは、誰もが他者を自らのように愛し、従って他者の幸いを自分の幸いのように喜ぶからである。こうして、一人の楽しみと喜びは、全ての人の喜びを合わせたものと同じ程の大きなものとなるであろう。」

聖トマス・アクィナスの「使徒信経講解」より

 

何を希望するかということより、誰に、または何に希望を置くかということが大事です。空想の希望もたくさんあります。待降節をよく生きることは、自分の望みをキリストに向けることによってそれを清めて、あらゆる望みを超える主の恵みを受け入れる心の準備をすることです。