「まことに宗教的、かつ敬虔なもの」

 今年は二年ぶりに死者のミサができますが、参加希望者が多いことからその関心がわかります。日本では死者の為に祈る習慣が強いですが、もう既に旧約時代に見られます。マカバイのユダは罪を犯した戦死者の為に「この罪が跡形もなくぬぐい去られることを、ひたすら祈願した。高潔なユダは、これらの戦死者たちの罪の結果を目撃したのであるから、この上は誰も罪を犯してはならないと一同を鼓舞した。

次いで、各人から金を集め、その額、銀二千ドラフメを贖罪の献げ物の為にエルサレムへ送った。それは死者の復活に思いを巡らす彼の、実に立派で高尚な行いであった。もし彼が、戦死者の復活することを期待していなかったなら、死者の為に祈るということは、余計なことであり、愚かしい行為であったろう。だが彼は、敬虔な心を抱いて眠りについた人々の為に備えられている素晴らしい恵みに目を留めていた。その思いはまことに宗教的、かつ敬虔なものであった。そういうわけで、彼は死者が罪から解かれるよう彼らの為に贖いのいけにえを献げたのである」(2マカバイ12 : 42-45)。

 

カトリック教会のカテキズムもユダの行いを取り上げてから説明しています。「教会は当初から死者の記念を重んじ、死者の為に祈り、特にエウカリスチア(ごミサ)のいけにえを捧げていました。それは死者が清められて、神の至福直観に至ることができる為です。教会はまた、死者の為に施し、免償、償いのわざを勧めています。」(1032)

 

死者の為に祈る時、特に身内の人や友人の為に祈るのは当然です。それは信仰と愛のわざです。その上、教会は全ての死者の為に、特に誰も祈ってあげない死者の為に祈るように勧めます。後者の中に多くの日本の先祖がいると思います。キリストの恵みを知る機会がなかった多くの日本の先祖は、主なる神の寛大な憐れみによって救われてはいると私は個人的に思っていますが、最終的に清められて天国に入れるように私たちの祈りを期待しています。これも信仰と愛のわざ、「聖徒の交わり」のわざ、また宗教的、かつ敬虔なものです。