年間第30主日 2021年10月24日

先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。

 

朗読箇所のテキスト(日ごとの福音)

 

第1朗読 エレミヤ書 31章7~9節

第2朗読 ヘブライ人への手紙 5章1~6節

福音朗読 マルコによる福音書 10章46~52節

 

<お話の要約>

今日の福音書は先週の箇所と対照的だと思います。先週は弟子のヤコブとヨハネがキリストに「キリストが栄光をお受けになる時、一人は右に、一人は左に座らせて欲しい」と言う、欲張りな心の現れの話でした。それに対して今回は心からの助けを求める人、バルティマイの話です。

 

このところで特に注意すべき点があると思います。バルティマイは、おそらくキリストの噂をすでに聞いていたでしょう。キリストが通りがかっていると聞いたら叫びました。

「ダビデの子イエズスよ、私を憐れんでください。」

それは心からの叫び、心を込めて必死になっているような叫びだと思います。それはあとのことでもわかります。群集はその人を叱りつけて黙らせようとしても、かえってますます「ダビデの子よ、私を憐れんでください。」と叫び続けたのです。人がどう思っても、どう言っても、とにかく本人は心からの叫びを声にして叫び続けました。

 

そこで、イエスはその人を呼んで、「何をして欲しいのか」と言われます。ここは一つ、興味深い点だと思います。主なる神は、人間に自由意思を与えてくださった。主なる神はご自分が与えた自由意志を尊重しておられます。イエスの福音宣教、聖書全体を読んだら、主は人間の自由にうったえています。キリストの宣教の話を読んだら、一つ大きなテーマは、心からの信仰、形だけでなくて、掟を守ることだけでなくて、心から愛を込めている信仰を求めています。それは、主なる神の愛に、愛を持って応えることを求めています。自由に、進んで、人がしたいから。けれど、その人がしたいと求めていることがすごく重要です。特に一番心の奥深いところに、結局、主なる神ご自身が人間の心に植え付けられた望み、叫び、求めている心があるのです。それは創造のわざによるのです。人間は主なる神に向けて主なる神のために造られた存在だから、人間性そのものは、もうすでに主なる神を求めているわけです。ただ、多くの場合は心の奥底に閉じ込められてあまり意識していないのです。このバルティマイはそこまで意識していないかもしれないけれど、でもそういうキリストに向かって助けを求める心、キリストが何をして欲しいかと聞かれた時は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と。おそらくキリストは、何を求めているかもう既にご存知だったのではないかと思いますが、ただ主はそれを表現して欲しいのです。そこも一つの人間の心の動きがあります。私たち自身は心の奥底で何を求めているか自分自身でもあまり意識していないことがよくあります。でも、それを表現できるようになったら、自分ももっとはっきり意識するようになります。これだ、私の求めているものは、これだと。

 

まず、この人は、「目が見えるようになりたい。」それに対してキリストは「行きなさい、あなたの信仰があなたを救った。」厳密に言えば、信仰そのものというより、キリストの恵みがバルティマイを癒して、目が見えるようにしたと思います。そこで、キリストが言われているのは、その人の信仰に対するご自分の恵みを与えられた。信じていたから救われたのです。実際のところは信じていない人も恵みをいただくことはかなりあると思います。ただ、キリストから見れば、やはり、キリストの思いは、人がただかわいそうだから助けてやろうという、軽いものではなくて、キリストはご自分ともっと深い関係を求めています。それは信仰の指しているところです。キリストを信じることは、キリストとのもっと深い関係に入ること、信仰が深まることは、もっと親しくなることを意味しています。キリストが結局、恵みを与えてくださるのは、人間をご自分に引き寄せるためです。人間は自分の本当の幸せ、神の栄光とか、そこまであまりわからないから、まず、身をもって恵みを経験させて、例えばこの人の場合は、目が見えるようになって、その人の人生がそこで変わって、自分の心もそこで変わって、与えられた恵みによって、その人がキリストに引き寄せられます。自分の求めていることを、まずいただいて、でもそこにもとどまらなかったのです。というのは、目が見えるようになったバルティマイは、なお道を進まれるイエスに従ったのです。信じただけでなく、弟子にもなりました。弟子というものの定義はやはりキリストに従うことです。キリストについていくことです。キリストが歩まれる道を、自分も歩んで、キリストに従っていくことです。このバルティマイは弟子にまでなりました。でも、それはさらに大きな恵みを受けるためです。キリストから見れば、目が見えるようにするのは簡単なこと、小さなことです。バルティマイにとっては大きかったでしょうが、キリストにとっては小さいものです。特にキリストが与えたいと望んでおられる恵みに比べたら、体の癒し、体のことは、まだ小さいです。キリストが与えたいと望んでおられることは、もっと大きなものです。永遠の命、完全な幸せです。そういう恵みを与えることによって、その人を自分に引き寄せて、人にもっと求めるように、もっと大きなものを求めるように教えておられます。

 

でも、それだったら、私たちもどうでしょうか。確かに様々な恵みをいただいています。キリストは私たちも引き寄せようとされます。でも、そのいただいた恵みによって私は、ますますもっと大きな恵みを求めるようになったでしょうか?