年間第29主日 2021年10月17日

先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。

 

朗読箇所のテキスト(日ごとの福音)

 

第1朗読 イザヤ書 53章10~11節

第2朗読 ヘブライ人への手紙 4章14~16節

福音朗読 マルコによる福音書 10章35~45節

 

お話の要約

 今日の箇所では、弟子のヤコブとヨハネの傲慢が現れます。ふたりはキリストが栄光を受ける時は、ひとりは右にひとりは左に座らせてほしいと頼みます。しかもこれは、注釈にあるように、キリストが三回も受難を予告した後のことです。そして、注釈にもあるように、このふたりは、イエスがエルサレムに行き、この世の王となることを期待しているということもあるのですが、でもそうだったら、全然わかっていないのです。キリストは三回も、エルサレムに行って殺されると予告したのに。でも、どうしてわかっていないのかというと、心理学的にひとつの動きがあると思うのです。否認という心理です。

 

否認の場合は、人に何か出来事があれば、あまりにも不都合で嫌なことだったら、それを全然受け止められない、認めたくないという気持ちのあまり、そういう出来事があるなど認識することさえ妨げられます。認識しないのです。その意味では、弟子たちはキリストに従って普通の生活を離れて、全部キリストに懸けています。キリストに懸けているから、キリストが殺されたら非常に困ります。キリストが殺されたら、自分のキリストに対する思いより、自分に与えられる影響を心配するわけです。それを受け入れないのです。

 

ほかのところにもあると思いますが、たとえば、身近な人、家族の病気などの場合は、その人のことも心配するけれど、場合によっては、それと同時にそれ以上に、そのことによって自分がどうなるか心配するようになるところがあると思います。それは人間の狭い心の現象だと思います。それに対して、キリストはあらためて、仕えることを教えています。だから、「あなたがたの間では」すなわち自分の弟子たちの間では、異邦人のようになってはならない。威張ったり権力を振るったりするのではなく、仕えなさい。偉くなりたいなら仕えなさい。いちばん上になりたいなら、すべての人の僕(しもべ)になりなさい。

 

実は、これは教皇様のひとつの肩書にもなっているのです。神の僕たちに仕える僕。これは教皇様のひとつの肩書です。このキリストの言葉に基づいています。どれほど現実になるかは、教皇様自身の信仰の度合いによるのです。でもそれは、確かにキリストが教えている生き方、心です。この今日のキリストの言葉は、特に、教皇様とか教会の中で指導の立場にある司教とか司祭、修道者に向けられた言葉です。でも、すべての信徒に当てはまるところがあると思います。普通のキリスト信者でも、たとえば熱心に祈ったり、信者のつとめを果たしたりしても、もし傲慢の心が働いたら、次第にキリストのためにするより、自分自身のためにするようになって、一種の自己満足になる恐れがあるのです。それは、結局、ファリザイ派の人たちが陥った誘惑です。そのために、キリストはファリザイ派を批判したのです。もともとは本当の信仰、熱心な信仰でも、傲慢の心によって腐敗してしまったのです。本当の信仰は、謙遜の心に基づいていなければ、長持ちもしないし腐敗してしまうのです。

 

だから、どうやって謙遜の心になるかというと、今日の箇所がひとつ示していると思います。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」これは、キリストご自身に倣いなさいというメッセージです。たとえば、司祭の叙階式の言葉から学ぶところがあると思います。その式の中で、叙階される人に、司教様が言います。「取り扱う神秘に倣いなさい。」それは特に、ご聖体の神秘に関することだと思います。そのご聖体のうちに、キリストご自身、神の子、王の王、主の主、救い主、すべてキリストが私たちのためにへりくだって、私たちを養う命のパン、命の血となられます。それは、私たちが想像もつかないようなへりくだりです。その誰よりも偉い主が誰よりもへりくだる主に仕えている者なら、どうして威張ることができるか。それを深く心に留めたら、それに倣うことができるのです。

 

特に信者の場合は、叙階式の言葉をちょっと変えたら、聖体拝領の場合を考えて、「自分がいただく神秘に倣いなさい。」自分が信じている主、救い主、自分が手で受け取って口にするほどへりくだった主に、自分が信じて仕えているのです。その主に倣いなさい。そのことを心に留めてもっと意識するなら、傲慢の心が抑えられて、次第に謙遜の心が強くなります。自分が仕えている主ご自身がそういうかただから、どうして威張ることができるか。特に、ほかの人の人間関係とか人に仕える時、または神様に祈って信者のつとめを果たす時、それを意識したら、この誘惑に陥らないで、本当に謙遜の心をもって主に仕えることができるのです。