年間第28主日 2021年10月10日

先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。

 

朗読箇所のテキスト(日ごとの福音)

 

第1朗読 知恵の書 7章7~11節

第2朗読 ヘブライ人への手紙 4章12~13節

福音朗読 マルコによる福音書 10章17~30節

 

お話の要約

みなさん、こんにちは。今日の話は金持ちの人の救いについての質問です。この金持ちの人は悲劇的な人だなと思います。たしかにキリストに感心があります。キリストのところに走り寄って跪いて永遠の命を受け継ぐには何をすれば良いのでしょうかと教えをこいます。キリストはまず掟、十戒の後半、隣人愛のところを引用して話します。その人は子どものころから全部守ってきました。かなり熱心でした。そこまで守っている人がさらにもっと知りたい。永遠の命を受け継ぐためには関心をもって、自分がもっと求めていると。キリストはその気持ちを汲んでもう一つのことをしめします。「持ち物を売って施して私に従いなさい。」そこまで言われると、代償を払う覚悟はできていない。悲しみながら立ち去ります。悲劇的です。キリストはさらに大きな恵みを与えようとしています。でもその人は財産、一時的なもの、どうしても死ぬときはこの世に残して去っていくもの、それを手放すことを惜しんでキリストの寛大な招きに応えられません。

 

私たちにもあてはまることがある気がします。いろいろな信仰のありかたがあります。一つは納税型の信仰と思っています。税金を納めるような感覚です。税金の場合は納めるべきは納めて残りは、自分の好きなように使ってもよい。反面、税金を納めている市民として政府が提供する色々なことも要求できます。治安のこと、健康のこと、福祉などたよりにして生活します。納税型信仰は似ているところがあります。納めるべきことを納めて、祈りとかミサの参加とか掟を守ることなど、でもそれが終わったらあとの時間や持ち物は、自分の生活のため必要なこと、またはもっと余ったら自分の思いのままに使ってもいいというところです。でも納めているから困っているときは神さまに助けを求めて、神さまが助けてくれることを期待します。それは悪いとは言えません。キリストは最初、掟のことを話して、それは永遠の命を受け継ぐことができるような言葉でした。納税型の信仰の方も、救われるのではないかと思います。でも未熟な信仰です。悲劇的なところもある。キリストはもっともっと多く与えたい。でも人はそこまでいたらない。キリストは別のところで話します。「与えなさい。そうすればあなたがたも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。(ルカ6:38)

 

納税型の信仰ではなく献身的な信仰のありかた、それはもっと多く恵みをいただくことができます。なにか納めてあとは自分の思いでできるようではなく自分のすべて、自分の才能・知識・健康・持ち物それは自分のものと見なさないで、むしろ神を愛して隣人を愛するためにあずかっているものと見なして、そのためにそれを利用して生きている信仰のありかたです。全生活は主に捧げている生活になるのです。日常のなかでいつも主を愛して隣人を愛する生き方です。それだったらこの世においても百倍の恵みをいただくことができます。永遠の命も受け継ぐのです。

 

でもだからといって人間は自分の意思でそれをしようとするのは難しいことです。まず求める心が必要です。もともと人間は何を求めているかによって変わります。どこまで自分を与えようとするかによって。納税型の信仰は自分の限られた愛の範囲で自分を与えます。献身的な信仰のありかたは自分を全部与えます。主をもっと心から求めることが必要です。今日の第1朗読は知恵が大切・知恵を心から求める文章です。知恵をキリストにおきかえたらキリストを求める心が表されます。「わたしはキリストを王しゃくや王座よりも尊び、キリストに比べれば富も無に等しいと思った。どの宝石もキリストに勝るとも思わなかった。キリストの前では金も砂粒にすぎず、キリストに比べれば銀も泥に等しい。わたしは健康や容姿の美しさ以上にキリストを愛し、光よりキリストを選んだ。キリストの輝きは消えることがないからだ。キリストと共に全ての善がわたしを訪れた。キリストの手の中には量りがたい富がある。」まさにその通りです。献身的な信仰のありかたです。すべてにこえてキリストを求める人は、同じ秤で量ってもらえるのです。主の豊かさ、ありがたい恵み、喜びが与えられます。そして後に永遠の命を受け継ぎます。