年間第23主日 2021年9月5日

年間第23主日 2021年9月5日

 

先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。

 

朗読箇所のテキスト(日ごとの福音)

 

第1朗読 イザヤ書 35章4~7a節

第2朗読 ヤコブの手紙 2章1~5節

福音朗読 マルコによる福音書 7章31~37節

 

<お話の要約>

皆さん、こんにちは。今日はキリストの奇跡の場面が読まれます。耳が聞こえず話せない人を癒してくださるのです。この場面には三つのレベルの意味があります。

 

一つは第一朗読に見られるところで、イザヤの預言では「神は来てあなたたちを救われる。その時見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。口のきけなかった人が喜び歌う。」注釈にもあるように、「これらのことはメシアの到来のしるしと考えられるようになった。イエスによって実現することになる。」今日の福音のことです。キリストの癒しの秘跡は、この預言の実現でもあります。そしてその預言の通り、神様が来られたしるしです。イエスの言葉では「神の国が近づいた」ということを指しています。キリストの福音宣教活動、色々な癒しなどの秘跡によって、救いへの回心が始まっているということです。憐れみの声でもあるけれど、それよりもっと深いしるしの意味もあります。

 

もう一つのレベルは、教会に於いて。教会では成人洗礼の場合、復活徹夜祭の時に洗礼を授けます。四旬節をその特別な準備の期間として設けています。四旬節の間3回の主日で、洗礼志願者のための3つの特別な祈りがあります。その中の一つは、ちょうどこの箇所に基づいている祈りです。洗礼を受ける人のために主のなさったことを思い出して、「エッファタ」(開けという意味)の祈りをします。その人が耳が不自由という意味ではなくて、心の耳が開かれて神のみ言葉が聴けるようにという祈りを教会はしています。神のみ言葉を聴くことは凄く重要だからです。当時のギリシャ人の宗教は、どちらかというと神を見ることに焦点を当て、色々な神秘体験を提供すると約束して人を集めたのです。でも、キリスト教、ユダヤ教は、むしろ神を見ることより神に聴くことを重視しました。神を見ることといえば、それは天国に行った時のことです。この地上に於いて一番大事なのは、神に聴くことです。神に聴くという言葉には、神に聴き従うということも含まれています。それは人間が神様に立ち帰るためのものです。創世記の初めにアダムとイブの罪の話を読めば、アダムとイブは主の言うことを聞かなかったから罪を犯してしまった。罪が、主の言うことを聞かなかったことから始まったので、主に立ち帰るために主のみ言葉に聴き従うことは絶対的に必要です。そのために心の耳を開く必要があるから、洗礼志願者のためにそのように祈っています。

 

それは教会のレベル。もう一つは、私たちの個人的な今のレベルです。洗礼を受けた後でも主のみ言葉に聴き従って信仰の歩みを続けて、自己中心的な生き方からキリスト中心的な生き方に成長する、それが信仰の歩みです。そしてその根本的な要素は、やはり主のみ言葉を聴いて従うことです。それは聖書全体に貫かれているテーマです。モーセは昔のイスラエル人に対して、「聴け、イスラエル。主は唯一の神である」と言われた。キリストも、「耳のある人は聴きなさい」と言われた。聖パウロもその根本的なところを指しています。「実は信仰は聴くことにより、しかもキリストの言葉を聴くことによって始まるのです。」ですからそれは根本的なところです。ただ、どうやってもっと聴き従うか…。人が聴き従わない場合は、大体何か他に思いや執着があったり、今の自分に縁のない関心のないことはあまり聞こうとないものです。例えば幼稚園では先生たちのための色々な研修の機会を設けていますが、先生たちの態度を見れば、参加してもつまらないという反応の時もある。先生にとってはあまり関心がないものだったり、実際の仕事に役立つものではなかったからという感想もあります。でもそれに対して、たとえばある先生が発達障害の子どもを抱えていて、どうやってその子の成長を手伝うか悩んでいるなら、それに関する研修にもっと興味を持って積極的に参加して、そこから得たものを実行に移そうとします。

 

要は、人は求めていることがあれば、もっと進んで聴き従うということです。それは、私たちは何を求めているか?という問いかけにもなります。もし主の言葉が自分にとってはそんなに関心がないとかそんなに心に響かないなら、もしかしたら自分はそれほど主を求めていないということになるのではないかと思います。そうだとしたら自分は何を求めているのか…。もし、主を一番に求めていないのなら、何を求めているのか…。そのことを振り返って考える機会になると思います。

私たちは人間として最終的に、終わりのない完全な幸せを心の奥底で求めています。自分では気づかなくても…。それは主の内にだけかなえられる求めです。それに心から気づいたら、もっと積極的に主を求めるようになり、もっと積極的に主に聴き従おうとします。キリストは言われます。「求めなさい。そうすれば与えられる。」