年間第2主日 2021年1月17日

先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。

 

朗読箇所のテキスト(日ごとの福音)

 

第1朗読 サムエル記上 3章3b~10、19節

第2朗読 コリントの信徒への手紙一 6章13c~15a、17~20節

福音朗読 ヨハネによる福音書 1章35~42節

 

お話の要約

今日の朗読は特にキリストに従うことがテーマになっています。弟子になること。福音書では弟子になることのプロセスのようなものが描かれています。まずヨハネの二人の弟子はヨハネの言葉「見よ、神の子羊を」を聞いてイエスに従いました。信仰の歩みはキリストの言葉を聞くことによって始まります。二人はキリストのことばを聞いて心を動かされ、キリストに従いました。

 

聞くとは単に音が耳に入ることではありません。聴覚で受けるものと違う次元の使い方があるのです。例えば何か話していても相手は全然それ話を聞いていないことがあります。たまに親は子供に「自分の言葉をちっとも聞かない」と言う感じのことがあります。聴覚の問題ではありません。音は耳に入っています。話している人にしてみれば、反応がないという事です。「言うことを聞かない」とは聞き従おうとしないことを問題にしています。聴覚の問題ではありません。

 

信仰は音を耳にしたことによるのではありません。しかし聞くことは信仰の歩みにおいても大事な要素です。人は聞いて動き出します。二人の弟子たちもキリストの方に行きました。イエスは振り返って彼らを見てたずねます。「何を求めているのか」と。この質問はとても重要です。何も求めていなければ、とくにキリストに何かを求めていなければ信仰の歩みにはなりません。今は自分の心を見て考える機会です。そうする必要があります。生活の中で私は特に何を求めているでしょうか。様々なことがありますが、この世のものだけでしょうか?それよりもっと大きなものはないでしょうか。信仰の面から言えば神の愛、キリストを求めること。主の問に私たちは答えなければなりません。弟子たちは答えました。

 

「ラビ、どこに泊っておられるのですか。」この言葉には何か教えてほしいというよりも一緒にいたいという気持ちが現れています。知識的なことより体験が重要です。特に私達の場合には、昔の弟子たちのように見える方として主と一緒にいることはできないので、頭ではなく心で主を求める必要があります。

 

キリストは言われました「来なさい、そうすればわかる」。一緒に来なさいということです。そういうことになるのです。結局、弟子たちはキリストのもとにゆき、そこに泊りました。「イエスのもとに泊った」。こうして“泊る”、“留まる“という言葉は重要になってきます。

 

留まる、一緒にいることは親しい交わり結ばれている感じがします。ぶどうの木のたとえを思い出してください。「私にとどまりなさい。私に繋がれていなければ実を結ぶことはできない」。これこそ使徒のイメージです。主に対する愛、主を求めることです。そうすると自分の望みが次第に主の望みに合うようになります。心が主と一つになるのです。そういう信仰の歩みを福音書は教えています。ぶどうの木はそういう信仰の歩みを指しています。

 

現代社会のことを考えると、様々な困難がありますが、信仰の問題は頭だけの事ではありません。頭ではなく心からキリストを求めること。キリストの心と一つになって、そこに留まること。そうすればキリストの内に生き、キリストと共に歩むことになり、キリストをもっとよく知るようになります。私たちがそれぞれの道をキリストと一致して歩むなら、大船教会も「共に祈り,共に歩む」教会になるでしょう。