「マラナタ、主よ、来て下さい。」

11月の最後の日曜日から待降節に入りますが、今年の第1主日のみ言葉の典礼は預言者の嘆きから始まります。

 

「なにゆえ主よ、あなたは私たちをあなたの道から迷い出させ、私たちの心を頑なにして、あなたを畏れないようにされるのですか。立ち帰って下さい、あなたの僕たちのために、あなたの嗣業である部族のために。」(イザヤ63:17)

 

びっくりするような表現です。預言者は民の罪で心を深く傷めて、まるでそれが主のせいであるかのように嘆いています。そして罪を犯した民が主に「立ち帰る」べきなのに、主に「たち帰って下さい」と願います。でもそれは責任転嫁というより、罪の深さにおののいているような嘆きです。

 

「私たちは皆、汚れた者となり、正しい業も全て汚れた着物のようになった。私たちは皆、枯れた葉のようになり、私たちの悪は風のように私たちを運び去った。」(イザヤ64:6)

 

結局、預言者は民の罪深さに打ちひしがれて無力感を覚えます。

 

初めて旧約聖書を読む人はよくつまずくと思います。戦勝ばかりの箇所を読んでうんざりしたり、戒律ばかりの箇所を読んで退屈になったりして、主なる神が民の罪に対して怒って罰を下す箇所を読んで怖くなったりします。どう説明したらいいかを色々考えましたが、ある信徒に、旧約聖書は私たちにどれほど救われる必要があるかということを教えている、と言われて納得しました。

 

この預言者の箇所もそうだと思います。民が罪に染まりきって行き詰まって立ち上がることができないでいます。預言者はその状態を主に訴えて、主の介入を求めます。

 

「どうか、天を裂いて降って下さい。御前に山々が揺れ動くように。」(イザヤ64:1)

 

考えてみれば私たちの世界はそんなに違うでしょうか。テレビのニュースを見れば戦争や騒動や不祥事の連続ではないでしょうか。世界平和をいくら望んでも今も程遠いです。やはり人間は、いくら知識をためても、いくら技術を開発しても、自分を心の悪から救うことができないでいます。

 

教会は知っています。主は御ひとり子を通して「天を裂いて」この世に降って下さって介入して救いの道を開いて下さいました。教会は今、その救いの完成を待ち望んでいます。「マラナタ」主よ、来て下さい。これこそ待降節の合言葉です。