降節第1主日 2020年11月29日

先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。

 

朗読箇所のテキスト(日ごとの福音)

 

第1朗読 イザヤ書 63章16b~17、19b、64章2b~7節

第2朗読 コリントの信徒への手紙一 1章3~9節

福音朗読 マルコによる福音書 13章33~37節

 

お話の要約

みなさん、こんにちは。今度の日曜日から待降節にはいります。教会の暦では典礼歴のはじめです。新しい年に入ります。興味深いことに年のはじめに世の終わりについて黙想します。それは年間主日の終わりに継続しています。待降節が進んだら次第に焦点はキリストの再臨から第一の到来、誕生によせていきます。待降節はそういうしくみです。

 

今回の福音書ではキリストは短い例え話をします。ある主人が留守をします。僕たちはそれぞれに仕事があります。門番はとくに目をさましているように命令を受けます。ずっと目をさまして主人がいつ帰ってもすぐ門をあけるように命じられます。その態度はキリストは私たちみんなにあてはまると言います。あなたがたにいうことはすべての人に言うこと「目を覚ましていなさい。」

 

これは何をさしているのか考える必要があります。文字通りの意味ではないでしょう。睡眠不足になってしまいます。これは比喩的な意味です。同じ表現、日本語の「目を覚ます」の意味を考えたらいいです。この言葉は人が自分の迷いとか過ちに気付いてそれを自覚して考え直して新しい道に戻る、そのような時に「目を覚ます」という表現を使います。

 

私たちにもあてはまります。信仰生活においてその迷いと過ちに気付いて正しい道にもどること。その迷いや過ちはどんなことでしょうか。待降節のことを考えたら、一つは自分の人生にかんする思い。特に現代では今までなかったほど人はまるでこの世でずっと生きているように生活しています。頭では人はいつか死ぬとわかっていても実感していないのです。その事実を見据えていない。人間はこの世に生まれてしばらくこの世で暮らして、あの世に去っていく通りすぎる存在です。それは事実です。ここに「目をさます」必要があるのではないでしょうか。一般社会ではそういうことがありますが、キリスト者でもその影響をうけて同じようになりがちではないでしょうか。

 

もう一つの比喩的な意味。英語訳をみればこの表現には、「用心しなさい」という意味があります。防火管理では、「火の用心」という言葉があります。火を使うとき火を発しやすいところでは気をつけて火事にならないように心構えをするという態度をさしています。キリスト者にとってはどのように用心しなさいなのか。私は自分の心ではないかと思うのです。主に従おうをするものなら、主についていこうと思います。用心しなければついつい自分の心が執着にとらわれて欲望にかられて怒りにかられて道からそれていきます。その意味では自分の心の正体について用心する必要があります。心が迷わないように。主の道から心が逸れないように。それを避けようとするだけではなかなか無理があります。それより良いほうに力を得る、集中する。相容れないことは同時に心にないのです。主を求めて主のことを思って、主にきき従うなら、同時に執着してしまうことは相容れない。むしろ自分が主から目から離して目をそらしたらそうなりがちです。自分の心の状態、一番主に向かう状態を保つために、なによりも主を求める心・主に身を委ねる心・主の言葉を聴いて行う心・その心を育てようと主に目を注いで主を自分の中心にすること。それこそ一番鍵になるのではないでしょうか。

 

そういう態度を持っている人は比喩的にキリストが言うように目を覚ましている人です。そのような人は主がいつ来てもかまわない。いつ来ても目を覚ましているからすぐに自分の心の門をひらいて主を自分の心に迎え入れて、主と一緒にいつまで喜ぶことになるのです。