王であるキリスト 2020年11月22日

先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。

 

朗読箇所のテキスト(日ごとの福音)

 

第1朗読 エゼキエル書 34章11~12、15~17節

第2朗読 コリントの信徒への手紙一 15章20~26、28節

福音朗読 マタイによる福音書 25章31~46節

 

お話の要約

今日の日曜日は王であるキリストの祭日です。年間最後の主日に当たり、今年は福音の中で最後の審判の場面が読まれます。これは皆さんがよく知っている箇所ですが、ああ、あの話だと考えて聞き逃し兼ねません。もっと注意深く読めばいつでも学ぶことがあります。

 

私としてははっとと思ったことがあります。私は前から、羊と山羊とを分けることはあまりピンときませんでした。しかし或る時、アフリカで働いている私の会の宣教師と話したときに説明を受けました。彼は遊牧民の間で働いていました。あちらでは、今でも昼間は羊と山羊に草を食ませ、自由にさせます。その時には別に問題はないのですが、夜帰るときには羊と山羊を別々の囲いに入れます。同じ囲いに入れるとオスの山羊は羊を襲ってけがをさせるのだそうです。これを聞いて私はすぐに聖書のこの場面を思い出しました。そして、どうして山羊が悪の象徴になったのかもわかりました。山羊には攻撃的なところがあるので羊と一緒にはできないということなのだそうです。

 

福音の話をさらに読み進めていくと、一つ気づくことは裁きの基準は愛の業だということです。生きている間に愛を行なったか、行わなかったか、の違いです。ここで「お前たちは飢えている人に食べさせ、喉が渇いている人に飲ませ...」と言っています。もちろんこれだけが愛の業ではありませんが、これは典型的な愛の業だということです。たとえばマザーテレサは文字通りの愛の業に生涯を捧げつくされた方です。日本に来られた時、日本には飢えている人はインドほど多くないか、愛に飢え渇く人は多い、との印象を受けたそうです。心の飢え渇きに応えることも一つの愛の業です。

 

その中の一つは、裁きの箇所でキリストはご自分に対する信仰について裁かれません。業について裁くのです。なぜかと言えば、最後の審判は世の初めから終わりまでの全人類が集まりますから、その中で多くの人はキリストを信じる人ですが信じなかった人も多いでしょう。キリストを知らなかった人も多いに違いありません。日本でもフランシスコ・ザビエルがキリスト教をもたらす以前にはキリストを知る機会がありませんでした。信じる機会も全くなかったでしょう。そういう人はどういう風に裁かれるのでしょうか。その人が愛の業を行なったかどうかが基準になるのです。

 

他方、恵みは責任を伴います。多く与えられた人は多く求められます。私も司祭として特別の恵みを頂いています。叙階の恵み、その他、多くの恵みを受けていますから、裁きの時には一般の信徒よりも厳しい裁きを受けると覚悟しています。信徒も信仰の恵みを受けているのですから、それを受けなかった一般の人よりもっと厳しい裁きを受けることになるでしょう。キリストを知る機会がなかった人たちの裁きは信徒たちのより軽いでしょう。

 

恵みに応えたかどうか。キリストを知る恵みが無かった人は、困っている人の中にキリストを見ることはできませんが、信じている人はできるはずです。これも一つ大事なところです。つまり、この愛の業を行なったか、行わなかったかという基準です。呪われて罰を受ける人は悪事を働いたからではなく、愛の業を行わなかったからなのです。勿論それがすべてではありませんが、怠りの罪が強調されています。ミサの初めの回心の祈りで私たちは「思い、言葉、怠りによって罪を犯しました」と称えます。怠りには重要なポイントがあります。

 

いずれにしても、ここで考えさせられる今日の教訓は、この個所を読むと、私たちは毎日隣人のうちに自分の裁き主に出会っているということです。それを意識すれば私たちの人間関係も変わることでしょう。その人を見る目が変わります。キリストは、この人にしたことは私にした、またはしなかったことになる、と言われます。そうすれば私たちは、恵みに応えてキリストを大事にし、隣人のうちにキリストに仕えて愛する人のために、「天地の創造の時から用意されている国」を受け継ぐことになります。これは王であるキリストの国、真理と正義と愛と平和の国です。これこそ主が私のために望んでおられる国であります。