「言(ことば)は肉となって、私たちの間に宿られた」

この大船教会の歴史をちょっと読んでみたら聖堂が何回か建て直されたことがわかります。ここは埋め立て地だから時間が経ったら建物は沈んでひびが入ったり傷んだりしました。それを受けて20年ぐらい前に建て直された時、まず石の基盤まで杭を打ってその上に聖堂を建てたから建物はまだ大丈夫です。

 

この聖堂の歴史は救いの歴史のイメージにもなると思います。人間が主なる神から離れて不幸になった時から主は絶えず人間に呼びかけて連れ戻そうとされました。人間との契約も結ばれましたが、埋め立て地に建てられた聖堂のように長持ちしませんでした。人間は意志が弱くて主に従おうと思っても末長く忠実を尽くしません。主はそうなることを最初からご存知だったので、時が満ちたら御一人子を遣わされました。「肉となった」言(ことば)である御子のうちに神と人間が一つになったから、主なる神と人間の関係は礎石であるキリストの上に立てられているので永久に崩れません。私たち一人一人がキリストの言葉を聞いて行うなら、岩の上に家を建てた人のようになります。(マタイ7:24参照)

 

教皇フランシスコは年間第3主日を「神のことばの主日」と定めました。ここで言う「神のことば」は聖書のことです。ある意味で「言(ことば)が肉となった」神秘は聖書のうちにも実現します。聖霊の働きで神の子がマリアの子となったように、聖霊の働きで聖書において人間の言葉は神のことばとなりました。その為に教会の初めからキリスト者は聖書の言葉で信仰を養ってきました。教皇様は私たちに呼びかけて一人一人が聖書に親しんで主の声に耳を傾けてその言葉を行うように勧めています。

 

聖霊の働きで書かれた聖書は聖霊のうちに読むべきです。そうすれば死んだ文字ではなく、生ける言葉となります。その意味でごミサの中で読まれるみ言葉は特に大切です。共同体が心を合わせて主を礼拝している時に、聖霊の特別な働きがあるから、その中で読まれるみ言葉には特別な恵みがあります。ただし、キリスト者がその恵みを豊かに頂く為に、み言葉を心に受け止める必要があるので、前もってみ言葉を読んで黙想して祈ることが大切です。「聖書と典礼」の裏表紙に次の主日の聖書朗読の箇所が書いてあるから、持ち帰ってみ言葉を事前に黙想しておいたら、ごミサの参加はもっと有意義なものとなります。ごミサの中の朗読奉仕者の場合はなおさらのことです。朗読奉仕者は朗読練習だけではなく、前もってみ言葉を黙想して自分の心の糧にしておくと、信仰をもって読むことができるので、聞く人がもっと容易に神のことばに耳を傾けることができます。