「ご復活祭おめでとうございます!」

先月こう書きました。「人間が何を求めているかによってその永遠の状態が決まります。自分の最後を心に留める人は自然に主を求めるように促されます。」それは回心についての話でしたが、やはり自分の最後を心に留めない人はキリストの復活の意味もわかりません。15です。突然「15」と言われたら皆さんはわからないでしょう。でももしその前に誰かが私に「8足す7は何ですか」と聞いたとしたら「15です」とちゃんとわかります。それと同じように「死」は質問です。ご復活がその答えです。だから質問を意識しない人はその答えもわかりません。 

 

「死」から目を逸らす理由はいくらでもあります。怖いからか、暗いからか、どうしようもないからか、後で考えるからか、厄介からか、今の生活を大事にしたいからか、自分の力で生きていると信じたいからか、死んだら無に帰ると考える場合は後がないから人生を好きなように過ごせるからもっと自由だからか、などなどです。

 

でも「死」から目を逸らすことは高く付きます。教会のカテキズムが説明しているように、

 

「神への憧れは人間の心に刻まれています。人間は神によって、神に向けて造られているからです。神は絶えず人間をご自分に引き寄せておられます。人間はただ神のうちにだけ、求めてやまない真理と幸福を見出します。」(27番)

 

だから「死」によって問いかけられない為に人間は、真理と完全な幸福を求めてやまない自分の心を、抑圧したり紛らわしたりします。その結果として人間は、比較的に脆い幸せだけを感じて、心を満たすような喜びは中々味わいません。人生を無駄使いにしてしまう恐れがあります。

 

主のご復活を信じる人は新しい世界に入ります。山から平野を見下ろすように、主の目から自分の人生を見てその意味がわかります。人生は障害物競争から巡礼に変わります。どこから来たかどこに行くかがわかって、目標をめざして歩んで行きます。苦しみや悩みは試練に変わって目標に近づく為の手段になります。そして希望と感謝と愛が湧いてきます。主において自分も復活するという希望、その心の奥底からの憧れに答えて頂くことに対する感謝、その身に余る恵みを与えて下さる主に対する愛。その為に主のご復活を信じる人は、「アレルヤ」すなわち「主を賛美せよ」と歌います。