「キリストが来られるのを待ち望んでいます」

待降節は救いの恵みを感謝して、その完成に与るように心を清めて待ち望む季節です。聖パウロが説明しています。

「実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。その恵みは、わたしたちが不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教え、また、祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。キリストがわたしたちのために御自身を献げられたのは、わたしたちをあらゆる不法からあがない出し、良い行いに熱心な民を御自分のものとして清めるためだったのです。」(テトス 2:11-14)

 

教会はこの聖パウロの言葉を受けて、ごミサの中で主の祈りを唱えてから毎回「私たちの希望、救い主イエス・キリストが来られるのを待ち望んでいます」と祈ります。でも果たして私たちはどれほど待ち望んでいるでしょうか。

 

子供の頃、私は確かにクリスマスを待ち望んでいました。クリスマスが近づくにつれて首をますます長くして気持ちがますますワクワクするようになりました。クリスマスの前の晩、興奮のあまりなかなか眠れませんでした。兄弟は皆同じような気持ちでしたが、一番末っ子の妹は特に興奮しました。クリスマスの朝、プレゼントを見てもいいと言われたら、妹はプレゼントの包みをドンドンちぎり取っては喜びの叫びをあげました。両親は妹を見て楽しそうに笑っていました。その後は簡単で美味しい朝ごはんを食べて、クリスマスのごミサに出かけました。アメリカではクリスマスを特に家族で祝うので、クリスマスと正月の間は祖父母を始め、親戚の家を回りました。どこに行っても特別な祝いの雰囲気でした。でもキリストが来られるのを待ち望んでいた感じではありませんでした。

 

待降節の意味をもっと理解する為に、聖パウロと教会の典礼が言っていることをもっと考える必要があると思います。先ずその第一歩として自分の心を見つめて、自分の一番深い望みは何かと見極めたらいいと思います。マルコによる福音 10:46-52では、目の不自由なバルティマイはキリストに助けを求めた場面が伝えられています。キリストの前に出たら、キリストは「何をしてほしいのか」と言われました。今の自分がキリストの前に出て同じような質問をされたら、どう答えるでしょうか。もしキリストが自分に「何でもしてあげるから、何をしてほしいのかを言ってごらん」と言われたら、どう答えますか。答えられないとしたら、どうやって待ち望めますか。答えられるとしたら、その望みは果たして自分の幸せの為になりますか。

 

もし人間が自分の心の望みをずっと見極めたら、心の奥底にキリストを待ち望んでいることに気づきます。人間が求めている幸せには名前があります:イエズス・キリスト。このキリストから恵みを受けて、このキリストに希望をかけている人こそ、キリストが来られるのを待ち望んでいます。