「御言葉を受け入れなさい」

先月は御聖体について書きましたが、教会の信仰において御聖体を神の御言葉から切り離すことができません。御ミサは二部からできています。

それは、御言葉の祭儀と感謝の祭儀です。言い換えれば「御言葉の食卓」と「御聖体の食卓」です。両方とも「食卓」で、私たちを養うものです。この二つは一体です。聖アウグスティヌスが説明したように、「秘跡は見える御言葉、御言葉は聞こえる秘跡」です。今回はこの御言葉について一緒に考えていただければと思います。

 

「御父は、御心のままに、真理の言葉によってわたしたちを生んでくださいました。それは、わたしたちを、いわば造られたものの初穂となさるためです。わたしの愛する兄弟たち、よくわきまえていなさい。だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。人の怒りは神の義を実現しないからです。だから、あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません」(ヤコブ1:18-22)。

 

この聖ヤコブの箇所は、私たちに御言葉による信仰の歩みを示していると思います。「御父は、御心のままに、真理の言葉によってわたしたちを生んでくださいました」というのは洗礼のことです。成人洗礼の場合、人は御言葉を聞いて信仰が芽生え、「見える御言葉」である洗礼の秘跡によって神の子供となる恵みをいただきます。

 

でも、そのいただいた命を育てる必要があります。だから聖ヤコブが書きます。「心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救う事ができます。」御言葉を信じた人のうちに救う力を持っている御言葉は、既に植え付けられていますが、その救いに留まる為に、常にその御言葉を受け入れる必要があります。

 

「御言葉を受け入れる」という過程は三段階に分けられます。一つ目は注意深く御言葉を聴くこと、特に御ミサの中で聴くことですが、他に大事な機会もあります。二つ目は御言葉を思い巡らして、噛み砕いて、自分の栄養にすることです。この二段階目は現代人にとって難しいです。ずっと言葉を頭で理解する教育を受けているから、聖母マリアのように御言葉を「心に納めて、思い巡らして」いることに慣れていない訳です。そして聖書は二つの違いで別世界です。聖書を書いた人たちの時代、地方、言葉、文化の違いで別世界です。人間的な観点からではなく、信仰の観点、主なる神の観点から聖書が書いてあるという違いで別世界です。しかし、この別世界に入ったら、もっと本格的な信仰の歩みをして、沢山の恵みをいただいて喜びも多くなります。

 

聖ヤコブが書いている「御言葉を行う人になりなさい」というのは三段階目です。本当の意味で御言葉を受け入れるというのは、やはり自分の思い、言葉、行動がますます御言葉に合っているものになるということです。御言葉を大事にして歩んでいる人は、少しずつ御言葉の力で変えられて行きます。