「永遠を思う心」

御復活祭をおめでとうございます。今年洗礼を受けた方も、おめでとうございます。

 

今年は御復活祭が花見の季節と重なります。暦の上ではどうなっているかを別にして、やはり薄いピンクの、微妙に美しい花を咲かせている桜の木を目にしなければ、「春が来た」と言う気持ちになりません。

「花より団子」と言う人もいますが、花は目を楽しませるから、長く眺めると日常の思い煩いを忘れて一種の心の安らぎを感じます。そしてあっという間に一枚、二枚と、散り始めます。最初はゆっくりと落ちて来るけれども、しばらくして風の強い日に桜の木の下を通ると桜吹雪に覆われます。花は地面に落ちて、人の足で踏みつけられて形もなくなります。新緑の葉も綺麗だと思いますが、花ほど印象的ではないでしょう。

 

私は初めて日本の桜を見たことを忘れられません。日本に来た翌年の春でした。日本語学校に通いながら東京都の府中市に住んでいました。教会の近くに「桜通り」と言う道路があって、両側に桜の木が植えられています。満開になるとその道路が通行止めになって「桜祭り」が行われますが、その時の桜通りを歩くと、まるで桜のトンネルを歩いている感じです。その感動をいつまでも忘れません。

 

その時から30年間もの月日が経ちましたが、二度と同じ感動を覚えませんでした。何もかも慣れたら心の動きが鈍くなります。今でも「綺麗だ」と桜の花を見ていますが、記憶にあった、現実まで及ばない何かが、手を逃れて掴めない感じです。桜の花と一緒に昔の懐かしい日々を思い浮かべ、その日々に心惹かれても、もう過ぎ去った記憶に憧れの跡を残しただけです。

 

人間とは何と不思議なものでしょう。聖書にもこう書いてあります。

 

「神は全てを時宜に適うように造り、また永遠を思う心を人に与えられる。それでも尚、神のなさる業を始めから終わりまで見極めることは許されていない。」(コヘレト3:11)

 

結局、人間は時間の中で過ごしても、時間を越える心を持っています。キリストの復活はこうした人間の救いです。復活したキリストの体に受難の傷跡が残っても、それは栄光のしるしに変えられたように、キリストのうちに復活する全ての人も、その受けた傷が主を賛美する理由に変えられます。そして時間の流れと一緒に過ぎ去った全ての感動や喜びを、主において新たに見出して永遠に楽しむようになります。時間を越える心を持っている人間は、キリストのうちに時間を越える復活にあずかるなら初めて、悔いのない、憧れのない、完全な、変わらない喜びで心が満たされます。

 

話は変わりますが、今年の4月から、私は隣の幼稚園の園長を務めることになりました。教会のことも今度もちゃんとしたいと思いますが、ご迷惑をかけることがあればご理解とご協力を宜しくお願いします。