「いつも喜んでいなさい」

神学生の時から復活徹夜祭が好きです。第一部の「光の祭儀」は特に印象的です。真っ暗な聖堂に復活のろうそく一本が運ばれて「キリストの光」が唱えられます。その後で光が点々と広がって、次第にろうそくを手に持っている皆さんの顔は、ちろちろとしている火に照らされます。そして復活の賛歌。「この夜」が繰り返される度に主のみ業が次々と思い起こされていきます。

 

しかし復活の賛歌の中でも特に印象的なところは日本語訳で十分伝えられていないと思います。原文をもっと正確に訳すれば「アダムの罪、こんなに偉大な救い主をもたらした幸いな罪」という意味のところです。教会はキリストの業の偉大さをあまりに感嘆して、気が狂ったかのようになって「アダムの罪」を「幸いな罪」と呼んで感謝しています。勿論、罪自体には感謝しませんが、その罪がキリストの到来のきっかけになったことを感謝しています。聖パウロが書いたように、

 

「罪が増したところには、恵みもなおいっそう満ち溢れました。」ローマ5:20

 

人間に永遠の死を免れるチャンスを与えることだけでもうすでに偉大な恵みですが、主なる神はそれにとどまらないで、キリストに結ばれてキリストのうちに「神の子」となる恵みさえ与えてくださいました。想像も付かないぐらい偉大な恵みです。

 

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」1テサロニケ5:16-18

 

ある意味ではこれは復活節の合言葉です。教会はご復活の神秘を黙想して、賛美と感謝のうちに五十日間を過ごしています。賛美と感謝は喜びの元です。感謝の喜びはもっとわかりやすいと思います。だれでも望んでいるものや助けなどをもらって心から感謝しているなら嬉しくなります。そして自分がそれをもらうに値しない意識が強ければ強いほど、それだけ大いに喜びます。人間が罪を犯さなかったとしたら、キリストのうちに「神の子」となる資格を自ら持っていませんでした。罪を犯したから、なおさらそれに値しないから、教会は大いに喜びます。

 

賛美の喜びを理解する為には美しさに感動する経験が役立ちます。例えば、とても美しい景色の前に我を忘れるほど心を打たれた場合は嬉しくなります。自分が何かをもらったからではなく、自分がそれを見て感動したから景色の存在がありがたく「すばらしい」と景色をほめて喜びます。主なら神は偉大さそのもの、美しさそのものです。そしてその偉大さと美しさは主イエズスのご復活において格別に現れました。だから教会は当然復活節を感謝と賛美のうちに過ごします。

 

最後に、主のうちに喜ぶことは福音宣教の原動力です。それは教皇フランシスコの使徒的勧告「福音の喜び」の大事なテーマの一つです。現代社会は楽しみをいっぱい提供していますが、深い喜びを提供できません。いつも喜んでいるキリスト者は、もっと力強く福音を伝えることもできるし、その喜びにもっと多くの人々は魅かれるでしょう。

 

主は本当に復活されました!アレルヤ!