得する損について

悪霊に取り憑かれたゲラサ人の話はマルコ5:1-20に載っています。イエスは、暴れてばかりいて誰も縛っておくことのできなかったゲラサ人から、レギオン(大勢)の悪霊を追い出したら、悪霊が豚の大群に乗り移ったことで大騒ぎになって、周りの町や村から人々がイエスのところに集まりました。彼らは「レギオンに取り憑かれていた人が服を着、正気になっているのを見て、恐ろしくなった。」そしてその成り行きを聞かされたら「人々はイエスにその地方から出て行ってもらいたいと言い出した。」

 

地元の人々の反応は興味深いと思います。取り憑かれていた人が暴れ続けている間は怖がることはわかるけど、正気になったらどうして恐ろしくなるのでしょうか。むしろびっくりしながらホッとして喜んだはずではなかったでしょうか。そして感心して感謝すべきだったのではないでしょうか。どうして感謝するどころか、イエスにその地方から出て行くように頼んだのでしょうか。聖書には説明がないから答えは想像するしかありません。大抵の人は「住めば都」という諺が表しているように、慣れているところで慣れている生活をすることが気楽です。キリストの到来によって新しい世界が開かれて、人々が今まで思ったことや信じたことが問われるようになりました。全く知らない世界に入ることは、いくらその世界が素晴らしいと言っても、何となく怖いことで嫌になります。

 

神の慈しみの特別聖年はもうそろそろ終わりますが、現代人も昔のゲラサ人と同じような反応があるのではないかと思います。今の自分がいくら嫌いだとしても、とにかく慣れた自分だから今の方が気楽ではないでしょうか。人生の意味などについてあまり深く考えたくない人もいますが、もしかしたらその行き着くところが見えないから、怖くなって止めておくのではないでしょうか。「神の慈しみ」と言えばそれは感謝して受け入れるものだと思われるかも知れませんが、今までの生き方が問われて新しい世界に入るようなことになれば、反発する人が出るのではないでしょうか。

 

確かに人が神の慈しみを心から受け入れるなら、新しい世界に入ります。あれだけの恵みは人を今のままにしておくものではないのです。ある人にとってそこが問題です。自分のことのすべてを自分で決められなくなります。結婚式の準備をする人の話を思い出します。宗教について聞かれたら、自分が誰にも何にも寄りすがりたくないから信仰なんか要らないと言いました。確かにキリストに聞き従うことはある意味で自分を失うようなものになります。でもキリストは言います。

 

「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、私のために命を失う者は、それを救うのである」 ルカ9:24。