「慈しみはとこしえに」(詩篇136参照)

以前に、ある司祭の、洗礼者ヨハネとキリストの宣教の仕方についての興味深い感想を読みました。キリストご自身はその違いに触れました。

 

「では、今の時代の人たちは何に例えたら良いか。彼らは何に似ているか。広場に座って、互いに呼びかけ、こう言っている子供達に似ている。『笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌を歌ったのに、泣いてくれなかった。』洗礼者ヨハネが来て、パンも食べずぶどう酒も飲まずにいると、あなたがたは、『あれは悪霊に取り憑かれている』と言い、人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。しかし、知恵の正しさは、それに従う全ての人によって証明される」ルカ7:31-35

 

その司祭の説明では、洗礼者ヨハネは回心を呼びかけて、それに答える人に慈しみを約束しました。それに対してキリストは先に人に慈しみを示して、その答えとして回心を呼びかけました。今も主なる神は両方の呼びかけをなさいます。ある人に罪悪感を起こして、悪を離れて赦しを求めるように導いて、赦しを与えて喜ばせます。他の人にご自分の愛を先に示して、悪から離れさせてご自分の方に引きつけてくださって喜ばせます。

 

主なる神は両方の呼びかけをなさいますが、近代の教皇たちは主の慈しみに信頼することの大切さを強調してきました。教皇レオ13世は全世界をイエスのみ心に委ねましたが、み心の信心は主の慈しみに信頼することを教えます。教皇ヨハネ23世はバチカン公会議の開会宣言でこう言いました。「今日、キリストの花嫁である教会は、厳格さという武器を振りかざすよりも、むしろ慈しみという薬を用いることを望んでいます。」教皇ヨハネ・パウロ2世は第二次世界大戦中悪のどん底を経験して、人間が主の慈しみに訴えることの大切さを確信してこう書きました。「キリストの秘儀は、教会と社会の歴史のこの困難な危うい時期に西暦二千年代に入ろうとするとき、同じ慈しみに救いを求め、請い求めるように招いています。」そして同じ教皇はご復活の次の日曜日を「神の慈しみの主日」と定めました。最後に、ご存じのように、教皇フランシコは去年の12月8日から今年の11月20日までの「慈しみの特別聖年」を公布しまた。

 

キリストが先に慈しみを示したのにそれに答えなかった人もいましたが、それでも今の時代に一番効果的な呼びかけだろうと思います。現代人の中では自分のことで悩んでいる人は少なくないのです。その人たちは主が慈しみを持って自分の嫌な部分も含めて自分を愛しておられることが信じられるなら解放されます。嫌な部分を含めて愛されるなら、自分も自分をありのままに受け入れるようになります。そして成長して他の人のことを考える心の余裕がでてきます。一つの例ですが、こうして主の慈しみは人を救います。